首都圏から車でおよそ3時間の距離にある蓼科高原は、八ヶ岳山麓に広がる高原地の一つである。比較的首都圏からのアクセスが軽快な高原地であることから、別荘地が形成され、その周辺には観光牧場や乗馬クラブも点在。避暑を兼ね、夏には多くの観光客を集めることで知られている。
冬の高原地には「雪が積もる。青々とした緑も無い。」というイメージが付きまといがちなため、訪れたくないと思う人もいるそうだが、この宿がある蓼科高原横谷峡は、八ヶ岳の南斜面に面しているため降雪量も少なく、また、積雪することもほとんどない地域ということを特記しておきたい。冬だからこそ感じられる、爽やかで、凛と張り詰めた空気と、雪化粧が施された八ヶ岳の山々が織り成す美しい景色は、夏とはまた違った印象を訪れる観光客に与え、必ずまた再訪したくなる魅力に溢れている。
この「蓼科高原」の1,150mの地、鳥のさえずりや風が木々を揺らす以外は静寂が広がる森の中に佇んでいるのが、3,500坪の敷地面積を誇る「たてしな藍」だ。表門をくぐり、「カラマツ」や「紅葉」、「白樺」などの木々に囲まれた通路を進んで行くと、左手に実際に藍染を体験することができる「藍染工房」がある。体験時に藍染を丁寧に教えてくれるのが、現社長の奥さんである丹羽由磯子さんだ。彼女が教えてくれる藍染の技術は、現社長のお母さんから伝えられたもの。宿名の由来である「藍」は、この宿を経営する丹羽家に伝えられてきた古くからの伝統であるということを実感し、また、この技術を将来に受け継いでいこうという意識に深い感銘を覚えた。藍染体験には様々なコースがあるが、日常生活でも気軽に使用できるハンカチを染め上げる「ハンカチコース(\1,700)」が特に人気があるそうだ。
この「藍染工房」の奥に食事処「山味庵」と玄関に甕が飾られた「たてしな藍」の本館がある。
「たてしな藍」は、愛知県名古屋市で祖父が興した時計関係の精密機械工場の3代目だった社長の丹羽一之氏が、昭和57年4月に誕生させた。鉄鋼業の先行きへの不安を覚えながら3代目として工場を運営していたものの、「何でも良いからサービス業がやりたい」という長年の夢を諦めることができなかったという。また、社長の父親が蓼科に土地を所有しており、度々訪れることがあったこの地に自然と愛着を覚えるようになった。この二つの事柄が結びつき、「蓼科で始められるサービス業=旅館」という結論に達した後、工場を閉鎖してオープンさせたのがこのお宿。とはいえ、素人が何も分からずに事業を始める危険さは、経営者としても理解していた。そこでオープン前、知人のツテで紹介してもらったとある観光ホテルで、半年間無給で修行を積む。この半年間で接客業の中でも特殊な旅館業に必要な様々な知識を吸収できたからこそ、宿をオープンさせることができたと社長は語ってくれた。
オープン当初は客室数全7室の小さな旅館だった。オープンから約2年間の間、スタッフは社長と奥さん、そしてお母さんのたった3人。それこそどんな小さな仕事でも3人で協力して行っていたそうだ。自分でできることは自分でやるという精神は心に深く根付いており、現在でも、社長自ら食器洗いや料理出しをしている姿に時折お目にかかる。
昭和61年に現在の本館を増築し部屋数は13室に増やす。他の業務との兼ね合いもあり、その際外部から料理長を招いた。平成4年には大浴場を改装し露天風呂を造った。平成8年に、創業時の建物を取り壊し、新館と食事処を建設。この当時の姿が現在の「たてしな藍」の原型である。
その後、平成15年に貸切露天風呂をオープン。そして、平成20年3月の露天風呂付き客室のオープンに際するリニューアルを経て、現在の姿となった。
このリニューアルを先頭にたって実行したのが、専務取締役の丹羽雄嗣氏だ。客室はもとより、ロビーも細部まで設えにこだわった印象的な仕上がりとなっている。ロビーには、デンマークのオーディオメーカー「Bang&Olufsen(バング&オルフセン)」社製のオーディオからヒーリングミュージックが流され、家具職人に特注で作ってもらったテーブルや椅子が並んでいる。宿の次代を担っていくことになる彼のセンスが活かされた空間を見ると、今後の成長が楽しみに思えてならない。
チェックインの後、このロビーでウェルカムスイーツの、水菓子「しずく石」と煎茶をいただいたら客室へ向かおう。また、陽気の良い日はロビーからテラスに出て、のんびりと「蓼科高原」の清々しい空気に浸るのもおすすめの過ごし方だ。
全部で17室ある館内の客室は、8タイプに分けることができる。その中から、まずは2008年3月にリニューアルされた誕生した露天風呂付き客室・NAタイプ、Dタイプ、NDタイプをご紹介しよう。
「藍楽亭」1階にある露天風呂付き・NAタイプ客室「初月」は、館内では一番広い客室。間取りは、和室12帖+和室6帖+掘りごたつスペース約4帖+ウッドテラス。花崗岩の露天風呂・内風呂・トイレ付き。冬のひんやりと張り詰めた空気の中、大人が2人で入ってもゆったりできる露天風呂での湯浴みは、個人的には最高のシチュエーションだった。
「本館」1階にある露天風呂付き・Dタイプ客室「茜」「蘇芳」には、ダイニングルームが併設されており、夕食のみではあるが部屋食が可能。間取りは、琉球畳の和室10帖+椅子とテーブルが配された洋風の縁側+ツインベッドルーム+ダイニングルーム+ウッドテラス。花崗岩を用いた露天風呂・シャワーブース・トイレ付き。暖かい時期には、露天風呂で湯浴みを楽しみ、そのままテラスに備えられたチェアで涼むのも良いだろう
「藍楽亭」1階にある露天風呂付き・NDタイプ客室「如月」には、洋風の縁側が窓側に設けられており、庭園を眺めながらゆったりとしたひと時を過ごすことができる。間取りは、和室10帖+椅子とテーブルが配された洋風の縁側+約2帖の更衣室+ウッドテラス。花崗岩を用いた露天風呂は大人2人でも湯浴みが楽しめる広さがある。内風呂とトイレも付いている。
残りの5タイプは以下のような客室だ。
「本館」2階にあるAタイプ客室「藍」は、この旅館唯一の和洋室。庭園を見下ろせる2階からの眺めも人気の要因の一つである。間取りは、ツインベッドが配された和洋室8帖+6帖+リビング。バス・トイレが付いた客室だ。
「藍楽亭」2階にあるNBタイプ客室「七夕月」。10月〜6月の末までは、こたつ布団もまだ出されているので、暖をとりながらゆるやかに流れる時間を過ごしてほしい。間取りは、和室12.5帖+掘りごたつスペース約4帖。バス・トイレが付いた客室だ。
「藍楽亭」1階のNCタイプ客室「卯月花」。掘りごたつスペースが設けられており、そこに座ってのんびり庭園を眺めてほしい。間取りは、和室10帖+掘りごたつスペース約4帖+約3帖の更衣室。バス・トイレが付いた客室だ。
「本館」2階にあるBタイプ客室「紅花」。この部屋から見下ろす庭園の姿も、春夏秋冬違った魅力があり、どの時期も美しい。間取りは和室10帖+4帖+椅子とテーブルが配された狭縁。バス・トイレが付いた客室だ。
「本館」2階にあるCタイプの客室「水木」。2階から眺める庭園の姿が美しいと評判の客室だ。窓際に配された椅子に座って、ゆったりとしたひと時を過ごしてほしい。間取りは、10帖の和室+椅子とテーブルが配された狭縁。バス・トイレが付いた客室だ。
大浴場は館内に2ヶ所。内風呂と露天風呂がそれぞれに設けられている。ちなみに、大浴場は男女入れ替え制のため厳密に名称が付けられていない。便宜を図るため、ここでは「大浴場A」、「大浴場B」と紹介させていただく。
大浴場入り口を正面に見て、左側に位置するのが「大浴場A」。内風呂に湯舟には花崗岩が用いられている。露天風呂は岩風呂に仕上げられている。どちらのお風呂からも庭園を眺めることが出来、思わず長湯をしてしまいたくなる。
右側に位置するのが「大浴場B」。こちらにも内風呂と露天風呂が設けられている。「大浴場A」と異なり、こちらは檜が生み出す暖かい木質感を大事にした湯舟で湯浴みを楽しむことができる。檜をふんだんに用いた湯舟と浴槽内に伊豆石が敷き詰められた内風呂と、木の温もりが溢れる和の設えの中に、半露天風に備えられた露天風呂での湯浴みは、幻想的な雰囲気に浸れると評判だそうだ。
内風呂は15:00〜翌朝9:30の間ならば好きなだけ利用することができる。一方、露天風呂の利用可能な時間は15:00〜23:00、翌朝6:00〜9:30となっている。なお、夕食の最中であろう19:30頃に大浴場は男女入れ替えとなるので、両方で湯浴みを楽しみたい方は、チェックイン早々に訪れることをおすすめしたい。
この宿の料理の礎を築いたのは、現社長の奥さんである丹羽由磯子さんが創業時に生み出した「家庭風懐石料理」。多くのリピーターを作る要因となった上品且つ優雅な献立は、その味とともに現在の料理長にしっかりと引き継がれている。旬の山の幸をふんだんに用いながらも、どこか家庭的な感覚を失わない料理は、味も盛り付けも非常に評判が良く、このお宿の人気の要因の一つと言える。
また、2008年3月のリニューアルでは、もっとゆっくり食事を楽しんでもらえる様にと、本館にダイニングルーム併設の客室(Dタイプ)が誕生。その他も本館の客室では、基本的にお部屋で夕食をいただける。だが、藍楽亭の客室は厨房から離れているため、個室食事処「山味庵」でいただく。そこには、出来るだけゆっくりと、しかし美味しく召し上がっていただきたいという配慮を感じられる。
では、取材日(2008年3月)に出された献立を紹介しよう。
旬の素材をふんだんに用いる料理なので、月に一度献立は変えているそうだ。取材日は3月だったので、お品書きには「弥生のお献立」と添え書きがされていた。「弥生のお献立」のコンセプトは「蓼科高原の芽吹きの時期である3月。ワンポイント的にその季節感を表した料理」ということだった。また、それら1品1品盛り付けられている器は、現代の陶芸作家のものを中心に、「古伊万里」などの古陶器がおりまぜられている。これらに注目してみるのもまた趣き深い。
食前酒の自家製梅酒とともに出された先付は、本場京都から取り寄せた「汲み湯葉」と「卵豆腐」を合わせて作られた「生湯葉豆腐」。天豆の艶煮と花びら型の百合根、つくしが一緒に盛り付けられている。割じょうゆでいただいた。やわらか過ぎず、程よく食感が残された一品。緑色の食材を用い、春を感じさせる盛り付けも見事だ。
前菜には「みょうが子寿司」、海苔をベースにしてわらびに見立てた「磯わらび」、諏訪湖で取れた「公魚(わかさぎ)の衣揚げ」、「菜種黄身辛子掛け」、ごぼうを合鴨の肉で巻いた「合鴨八幡巻」の5品が並んだ。どの料理もメインの食材の味が存分に活かされており、非常においしくいただけた。
吸物椀は、玉子豆腐とわかめを合わせ切り口が唐草模様に模した「唐草豆腐」と、白玉をベースに湯がいて叩いたよもぎを加えた「よもぎ団子」がメインの具材のお吸い物。京都から取り寄せた「平湯葉」や、「浜防風」、「とろろ昆布」、「花柚子」が一つに調和した優しい味が印象的だった。
お造りは、蓼科湖の側にある養殖場から仕入れた虹鱒を桜葉で包んだ「虹鱒桜葉包み」。「刺身こんにゃく」、花びら型にあしらわれた「花びら独活」、京都から取り寄せた「加茂川海苔」が一緒に盛り付けられていた。川魚に生臭い印象を持つ方もいるだろうが、この虹鱒には臭みがまったく無かった。素材の新鮮さが伺える。
強肴は、社長の奥さんである丹羽由磯子さんが創業当時に生み出した「黒豚の旨煮」。「大豆」と「あしたばの素揚げ」が一緒に盛り付けられていた。創業以来変わることのないこの味を求めて、再訪する宿泊客もいるという。
焼き物は、虹鱒と同じ養殖場から仕入れられる岩魚を用いた「小岩魚塩焼き」。そのまま手づかみでかぶりつきたい。芽吹いたばかりの蕗を用いた「揚げふきのとう」や「酢バス(レンコン)」とともに盛り付けられていた。
小茶碗は「新馬鈴薯万頭」。収穫されたばかりの新じゃがいもを蒸した後に裏ごしし、道明寺を混ぜて作った万頭と桜麩がメインの具材。春らしいうぐいす色の新ピース、桜の花が盛り付けられた上から銀餡が掛けられていた。
進肴は、筍、ゆきのした、サラダねぎ、蕨、独活、たらの芽、芹、野甘草、ぜんまい、うるい、寒天、こごめ(こごみ)、ところてんが盛り付けられた「山里〆吹盛り合せ」。辛子酢味噌を絡めていただいた。芽吹きの時期である早春を強烈にイメージさせるこの一品には、山の幸がふんだんに用いられている。山菜が好きな方にはこれ以上の贅沢は無いだろう。
炊き合せは、「ぜんまい信田巻」、あえて焼き色を付けた長芋を煮た「焼〆新長芋」に、「巻き湯葉」、「木の芽」、「スナック豆」、「桜道明寺掛け」が盛り付けられた一品。
ご飯物は「茎わさび茶漬け」。白米の上には塩昆布、あられ、切り胡麻が乗っている。かつお昆布出汁をベースにし、味を付けた煎茶を注いで、一気にかきこみたい。「山ごぼう」、「野沢菜」、地物の「たくあん」の3品が香の物として一緒に出された。おなかが一杯になってしまったとしても、お茶漬けなのでサラサラかきこめるように工夫されている。
水菓子は旬を迎えた「苺シャーベット」にマンゴペーストを掛けて。ホイップクリームとクランベリー、ミントが一緒に添えられていた。苺とマンゴ、クランベリーの酸味とホイップクリームの甘さが絶妙に調和したデザートだ。
宿泊客からの要望を盛り込んで、より喜んでもらえるように今も改善を続けている翌朝にいただいた朝食。切干大根、胡麻豆腐、小松菜のお浸し、公魚の甘露煮、昆布の佃煮、川海老の艶煮、温泉玉子、子鱒の開き、具沢山の豚汁、そば粥、香の物などが並んだ。その中で特に注目したいのが、そばの実と白米をブレンドして毎朝作られる「そば粥」。独特の深みある味わいが非常に印象的だった。なお、スタッフに声を掛ければ白米も準備してもらえるのは嬉しい。食後にはコーヒーか紅茶が出され、ほっと一息つかせてくれる。
翌日のチェックアウト前には、ロビーに併設されている売店に立ち寄ることをお忘れなく。ウェルカムスイーツで出された水菓子「しずく石(8個入り:\1,050・12個入り\1,500)」やお茶請け菓子の「さつまいも甘納豆(\650)」、朝食で出された「りんごジュース(2本入りケース:\1,600)」など、気に入ったら即購入したい食べ物のお土産も充実しているが、それ以上に注目していただきたいのは、オリジナルの「藍染製品」の数々だ。「ティッシュケース(\750)」や「カードケース(\3,100)」、「スリッパ(\2,900)」などの小物から、サイズ別に取り揃えられた「バッグ(\7,500〜)」や「さむ衣(\28,000)」まで、手作りの品で同じ模様は他に一つも無いお土産品が、種類豊富に取り揃えられている。繰り返すが、これらの「藍染製品」は「たてしな藍」でしか購入することはできないので、旅の思い出として購入することをおすすめしたい。
清々しい空気が周辺に漂うこの宿は、駐車場から玄関までのアプローチに代表されるように、花と緑に囲まれた「草庵」のような佇まい。季節によりうつり変わる様々なシーンが、来訪する人の目を楽しませてくれる。そして、館内に入れば、そこはかとなく醸し出す「雅」と「侘び寂び」の絶妙なバランス。まさに大人のための「和」の宿なのだ。
この宿は源泉を豊富に所有している、かけ流しの宿ではない。温泉を主役にしなくとも、これだけの質感とワンランク上の雰囲気を醸し出すのは、オーナーはじめスタッフの努力の賜物と言わざるを得ない。
「蓼科高原」は世間に知られているように、別荘地としても有名だ。この地に別荘を持たなくても、この宿を知っていれば、まさに別荘代わりに利用できるスペックは充分揃っている。
春夏秋冬のそれぞれの顔を持つ「たてしな藍」は、オーナーが愛したこの地に根付き、そして露天風呂付き客室が誕生し、これからまた新しい客層にも支持されていくだろう。
「ちょっと息抜きに旅行に行くなら、こんな宿がいい。とにかく落ち着く雰囲気がいい。」・・・取材時にロビーで寛いでいた初老のご夫婦の会話が印象的だった。(J/NS)