「忘れの里 雅叙苑」は、鹿児島県北部、霧島温泉より南側に位置し、鹿児島空港からクルマで15分のロケーションの妙見温泉にある。
妙見温泉は、新川渓谷温泉郷(日の出温泉・塩浸温泉・安楽温泉・新川温泉・妙見温泉・日当山温泉・姫城温泉)のひとつ。天降(あもり)川に面していくつかの温泉旅館が建ち並んでいるが、元々は湯治場として地元の人々に愛されてきた素朴な温泉地なのだ。
幕末、坂本竜馬とおりょうが、日本で最初の新婚旅行をしたと言われているが、実はその場所はこの妙見温泉の近くの塩浸(しおひた)温泉と言われている。しかし、残念ながら今はその宿はなく、近くに日帰り温泉施設があるのみとなっている。
また、妙見温泉には犬飼滝の遊歩道沿いに「和気の湯」という混浴露天風呂もあるという。相当古い歴史を持った野湯らしい。
さて、「雅叙苑」は、その妙見温泉の中心地、天降(あもり)川に沿った細い道を、木の看板を手がかりに坂道を下っていくと辿り着く。苑内に入ると「この道 にわとり優先」の看板が目に入る。そして茅葺きの屋根がはっきりと見えてきた。
下り坂を降りきると広場があり、ここでスタッフがお出迎えしてくれる。そしてフロントへ導かれると、ニワトリも歓迎の挨拶でもしてくるかのように現れた。以前はたくさんのニワトリが放されていたが、現在では2羽のみとのこと。
この宿のロビーは茅葺きの囲炉裏小屋となる。ここでチェックインの手続きをし、予約した客室へ案内されるわけだ。
敷地は天降川沿いに横長の形。茅葺きの屋根はフロントロビーの囲炉裏小屋、水屋(調理場)、朝食会場の「いちょうの間」、宿泊棟の離れ「風」「紅」「もみじ」「さくら」「けやき」の9棟。その他の建物の屋根は瓦葺きとなる。
敷地の中心部に「読書室&サロン」がある。昼間は読書室、喫茶室として利用できる。
この独特の雰囲気は、まさに日本の原風景、それも地元鹿児島の山村の生活シーンを投影したように作られている。それでいながら、現代人が望む快適な設備は当たり前のように用意され、そこにオーナーと女将さんによる他ではマネできないエッセンスを散りばめて、客を迎え入れる。
この「雅叙苑」の特徴的なことのひとつに、お客のほとんどが遠方からわざわざやってくるという点があげられる。首都圏で5割、関西圏で2割・・・とは驚くべき数字だ。つまり、地元九州の比率よりも高いということだ。
つまり、この宿にはわざわざ飛行機を使ってまで訪れるお客が多いということ。日本でも有数の人気旅館「雅叙苑」には、人を引き寄せる数多くのコンテンツが内包されているという事のがこれでお分かりだろう。
客室のタイプは大きく分けると4タイプに分けられる。
露天風呂付き特別室「椿」、露天風呂付き準特別室「風」、そして露天風呂付き客室「空」「草」「紅」「もみじ」「さくら」「けやき」。最後に一般客室「光」と「水」となる。
まず全10室中、露天風呂付き客室は8室あるが、そのうち離れは6棟ある。いずれも鹿児島に昔あった茅葺きの古民家を移築、改装したものだ。
まず、露天風呂付き特別室「椿」から紹介しよう。
敷地の一番奥にある離れはメゾネット型。「雅叙苑」で一番広い、そして豪華な客室がここだ。豪華といっても、それは「雅叙苑」。田舎の雰囲気を残しつつも、リゾート気分を促すような空間もある。
玄関にあがると、そこは郷愁を感じさせる囲炉裏のある板の間が用意されている。夕食はここでいただくことになる。
2Fは、和室が2間。そして広大なオープンテラスが配されて、開放感と快適性を両立させている。切石の露天風呂に好きな時間に入って、白いタオル生地のシーツを巻かれたデイベッド(お昼寝用ベッド)に寝転ぶ。その視界には他の宿泊棟の茅葺きの屋根が見える。このテラスにはチェアも2脚あり、その間には氷を敷き詰めたクーラーボックスがあり、お酒やソフトドリンクが冷やされていた。
今から思えば、「天空の森」を連想させるような設えがこの客室にはあるような気がする。また、この「椿」は各界の著名人がよく利用される。お忍び旅行には最適な部屋なのかもしれない。
「椿」に次ぐグレードの客室が「風」だ。2間続きの和室に、広めのオープンテラスには、客室露天風呂、デイベッド、シャワーブースなどがコンパクトに配されている。天降川に面していて、川のせせらぎの音が気持ちいい。ご夫婦、ファミリー層に人気の高い部屋だ。
「空」は、天降川に面している客室。2間続きなので広々している。ファミリー層にお勧めの客室だ。縁側にはテーブルも用意されていた。広めの客室露天風呂もいい。定員が5名の部屋だ。
「草」も、天降川に面し、コンパクトな空間ながら、なぜか落ち着いた雰囲気の部屋だ。熟年のご夫婦にお勧めの客室。こちらも客室露天風呂が付く。定員3名。
「紅(べに)」「さくら」「けやき」「もみじ」は、それぞれ独立した離れとなっている。いずれも囲炉裏の板の間とテラスには客室露天風呂を備える。
中でも「紅」はテラスにはデイベッドが付き、カップルにはお勧めだ。
「けやき」「さくら」は、岩をくりぬいた野趣溢れる露天風呂は雰囲気たっぷりだが、湯舟は小さめでお一人様仕様。定員はいずれも3名。
露天風呂の付いていない一般客室は2部屋。天降川沿いの「光」「水」がそうだ。「光」は12帖の広めの和室。ファミリーやグループ客に向いている。定員6名。
「水」は、8帖で定員3名。コンパクトな空間ながら、「雅叙苑」らしさを充分感じさせる部屋だ。
「雅叙苑」を語るには、やはり温泉は欠かせない。男女別大浴場「健(たける)湯」は、重さ20トンもの巨大な一枚岩を、半年がかりでくり貫いて作った湯舟が大迫力。もちろん源泉100%かけ流しの温泉だ。
泉質は鉄分を含む土類重曹泉(炭酸泉)で、神経痛、疲労回復、そして美肌効果もあるという。
嬉しいことに、満室の状態でも、このお風呂は貸切状態になる場合が多い。それは、ほとんどの客室に露天風呂が付いているためだ。このお風呂の湯浴みは天降川のせせらぎを聴きながら、まさに至福の時間を過ごせるだろう。
「雅叙苑」内には夕食前に無料サービスのコーナーを設けている。人気なのは、この宿ならではの素朴な「ふくれ菓子」。チェックインの時間になると、読書室サロン前に置かれる。
さらに、サツマイモも囲炉裏小屋に置かれていた。レモン水や、売店でも販売している「柿の葉茶」も無料でいただける。
また、夕方、食事前になると水屋前には冷えたワインも水屋の前に用意される。早めの食前酒というわけか。
ここで、「忘れの里 雅叙苑」の夕食の一例をご紹介しよう。(2008年6月取材)
夕食は、基本的にお部屋でいただくことになる。
食前酒は自家製の梅酒。
次が、「雅叙苑」が運営している鶏牧場で育った地鶏の刺身盛り合わせ。ササミ、レバー、砂肝、モモ、ムネ肉が並ぶ。みょうが、手作りこんにゃく、長イモ、玉ねぎも添えられていた。
そして、とれたて新鮮な季節の野菜盛り合わせが出た。
人参、レッドオニオン、玉ねぎ、ズッキーニ、水菜、スナックエンドウ、コールラビ、十六寸豆(とろくすんまめ)、大豆の梅酢漬け、トマト・・・は「天空の森」の畑で栽培されたもの。アスパラ、ゴーヤ(ニガウリ)、オクラは、地元の農家から仕入れたものだ。かつお節をのせて、手作りのごま油ドレッシング(醤油ベース)をかけていただく。
次に、天降川でとれた天然鮎の塩焼き。たでの葉ですった酢につけていただく。
今度は、煮しめだ。地鶏、あげ豆腐、大名竹、こんにゃく、椎茸、ワラビ、キヌサヤ、きりぼし大根、人参が入っていた。いずれも地元産の野菜。キヌサヤは「天空の森」の畑でとれたもの。
そして、山菜田楽が登場。和牛、こんにゃく、ナス、椎茸、大名竹、ゴーヤ、しめじが入り、らっきょうは「天空の森」産。
ここで、だご汁。さつまいも(唐芋)のでんぷんで作った団子入り。他に鶏ミンチ(つくね)、竹の子、大根、厚揚げ。小松菜は「天空の森」産。
そして、メインといっていい黒豚の角煮。黒砂糖と焼酎で味付けし、じっくり煮込んだ鹿児島黒豚の角煮だ。
次は、摘み草揚げ。よもぎ、みつば、おおばこ、さつまいも、ゴーヤ、らっきょう、どくだみなど。
そして、田舎そば。毎日手打ちしている。蕎麦粉100%。だし汁に天然の乾燥鮎を使用している。
締めは、山菜おこわと胡麻みそ汁だ。山菜おこわには、椎茸、竹の子、シメジ、人参に鶏もも肉。ごまの味噌汁には、しいたけ、豆腐、しめじ、人参が入っていた。
自家製の香の物もいっしょにいただく。
デザートは、まくわうりとスイカ。これも、もちろん地元産。この後に白玉ぜんざいをいただいた。
夕食は以上だが、まさに鹿児島の田舎料理。この味、この献立が「雅叙苑」の真骨頂なのだ。
コンセプトは明確だ。ココは京都ではない。だから京料理は出さない。
薩摩の素朴な田舎の味を、都会に住んでいる方に提供する。この割り切り方がすばらしい。
最近「地産地消」という言葉がもてはやされているが、「雅叙苑」は当たり前のように昔からこうなのだ。
竹の器もこの宿らしい。なにも高価な器で料理を出されても、美味しいとは限らない。
料理人も「雅叙苑」の一員。心から遠方からやってくる旅人を癒してくれる料理を作ってくれているのがよくわかった。
昼間、チェックインの手続きをした囲炉裏小屋が、夜になると役割が変わる。
夕食後、スタッフによる拍子木の合図とともに、宿泊客がここに集まってくる。囲炉裏には、薪がくべられ、地元の人が「カッポ酒」という竹筒の焼酎が温められている。ここで知らない客同士が一期一会を感じながら夜空の下、語りあうのだ。人は昔から、火のもとに集う。この囲炉裏は火を囲みながらの社交場(サロン)と化すのだ。
実際、「雅叙苑」での一番の思い出、楽しみは、実は囲炉裏小屋での語らいという客が多いという。
朝食は、「雅叙苑」の最初の茅葺きの建物「いちょうの間」でいただく(2008年6月取材)。近隣の農家の建物を移築したもので、どっしりとした存在感のある佇まいだ。
その「いちょうの間」に入る前に「水屋」にて、魚と卵料理をここでチョイスする。この日は、魚は、アジ、キビナゴ、イワシ、サバの中から一つ選んだ。卵は、目玉焼き、玉子焼き、温泉玉子、生玉子の中から選ぶ。
この日の献立を紹介すると・・・焼き魚は、チョイスのキビナゴ。玉子料理もチョイスの玉子焼き。
黒酢とハチミツの入ったにがうりジュース。
豆腐(おかべ)、そばがき、手作りさつま揚げ(つきあげ)、菜っ葉の白和え(豆腐和え)、いんげんの豚味噌添え、ふきとちりめんじゃこの煮物、つるむらさきのお浸し。
サラダは、トマト、人参、水菜、大根、じゃこで、ごまドレッシングをかける。
味噌汁の具は、人参、大根、ごぼう、竹の子、わらび、油揚げ。そして「天空の森」産の玉ねぎ、ジャガイモ、菜っ葉が入る。味噌汁に玉子を入れるのは、鹿児島では一番のご馳走と言われている。
ご飯は、薪で炊く。さつまいも(唐芋)といっしょに炊いている。
こんな朝食を毎日ゆっくり食べられたら、絶対病気などしないだろうと感じさせる、自然の恵みたっぷりの献立であった。
「雅叙苑」のスタッフの接客の基本は、ベッタリお客様にまとわりつくような事はしない。プライベートな空間にはできるだけ近づかないスタンスだ。
それでいて、客の要望を汲み取ってくれているようでもある。
「雅叙苑」には、宿の「文化」を理解してくれている「いいお客様」がたくさんいるような気がする。もちろん、リピーターも多いが、初めての人も何かしらか情報を得てこの宿にやってくる。
しかし、これほどの人気旅館でありながら、敷居の高さを感じさせないのはなぜか?
それは女将さんの指導もさることながら、スタッフ個々の資質と努力の賜物に違いない。
チェックイン前に、スタッフが近くで採れた山野草でペンダントを作っていた。
これもこの宿ならではのおもてなしのひとつ。
そして、今回、ある夫婦のお誕生日記念で宿泊したところを特別に取材させていただいた。ご主人が奥さんの誕生日ということで「雅叙苑」を予約したというのだ。
ご主人はバースデイケーキを夕食後に持ってきてもらうように、スタッフにあらかじめお願いしておいた。
そして、段取り通りにケーキを部屋に運んできてくれた。もちろんケーキだから、一人で運ぶのは充分なのに、5人のスタッフが中に入ってきたのだ。
奥さんもケーキで驚くがご主人もスタッフの人数に驚く。
すると、5人のスタッフはいきなりバースデイソングを合唱してくれたのだ。
これに奥さんもびっくり。よくスタッフの顔を見ると恥ずかしそうに歌っているが、そこがまたいい。
歌い終わった後、その奥さんは涙ぐんでいた。まさにサプライズの演出を「雅叙苑」のスタッフなりにやってくれたのだ。
ご主人もここまでしてくれるとは思わなかったらしく、大感激の様子。
そしてスタッフ全員も笑顔。
・・・・・これも「雅叙苑」の一場面。決してスマートではないけれど、心からお客様に感謝する姿勢がそこに垣間見れたのだ。
取材をしていて、多少ベタかもしれないが、久々に感動させてくれるシーンを見せてくれた。
そして、ケーキといっしょに運ばれてきた「天空の森」で栽培している野菜を使ったブーケも見事だった。
最近この宿に、エステルームが誕生した。ただしボディ全身のコースはなく、手と足裏のリラクゼーション(リフレクソロジー)が中心。パウダーとオイルのお好きなコースが選べる。足裏のプチリフレのコースは25分3,000円。「雅叙苑」の直属のスタッフが施術する。
「雅叙苑」のおみやげは素朴なものばかり。
「鶏牧場のたまご」は、肥料添加物や抗生物質などを使わない、自然のエサで育てられたもの。
おやつで出された「ふくれ菓子」やウェルカムお菓子で出された「よもぎだんご」も、おみやげとしても販売している。
これもオリジナルの「薬草茶」と「柿の葉茶」も人気だ。
フランス製のオリジナルデザインのエコバッグも販売されていた。
現在の「雅叙苑」の人気ぶりは、いまさら語ることもないだろうが、それは一朝一夕にできたわけではもちろんない。オーナー田島健夫さん(昭和20年生まれ)と女将さんの悦子さん(昭和22年生まれ)の苦労と努力があったからこそ、今の「雅叙苑」があるのだ。
「雅叙苑」の創業は昭和45年4月。木造2階建ての建物で、1階が広間で2階に客室が5つあるだけの小さな宿であった。今や全国区の人気を誇り、憧れの宿として名をはせている宿の面影は、その当時はなかった。
いわゆる安普請の宿であった。田島社長、25歳の時である。
田島健夫さんは、古くから湯治場を営む家の次男として生まれた。大学卒業後、鹿児島市内の金融機関に就職する。ところがそろばんが不得手、そして何といっても事務処理の仕事が苦手で、すぐに外回りの仕事に変えられたという。
昭和45年(1970年)は、日本は高度成長期の頃、日航機よど号ハイジャック事件、ビートルズが解散、プロ野球・読売ジャイアンツがV6・・・などがあった年だ。
国内の旅行業界を振り返ると、団塊の世代による新婚旅行ブームの真っ只中の時代であった。その旅行先で人気だったのは宮崎、大分(別府)、鹿児島(霧島)といった九州の観光地。
金融機関に勤めながらも、その現象のもの凄さを感じ、実家の母親に地元客相手の湯治旅館ではなくて、新婚旅行の客が訪れるような観光旅館をやらねば・・・と説いていた。実際に九州の旅館・ホテルは空前の好景気に沸いていた。
「それなら自分でやってみろ。」この一言で健夫さんは宿を新たに作る事を決意する。「雅叙苑」の誕生のきっかけがこれだ。
現在の宿の敷地は、もともと田島家が持っていた土地で、湯治旅館「たじま本館」の小さな別館が建っていた。それが大雨で流されて激甚災害の認定を受け、復興資金として1,000万円を貸してくれるという状況も、宿運営に走らせた。
すぐに金融機関を退社し、前述の木造2階建て、客室数5室の宿を作ったのだ。
「これから新婚のお客さんが来る!」田島社長は確信していた。
ところが実際は違った。まったく新婚客が来なかったのだ。
客といえば、当時、九州電力のダム工事に携わっていた土木作業員がほとんどだった。ハネムーン旅館になるはずが、飯場のような宿になってしまった。
そんな折り、田島社長は現在の女将さん、悦子さんと翌年の昭和46年4月10日に結婚する。悦子さんも別の金融機関で働いていた。同業の金融機関同士でバレーボール大会などの集まりがあり、そこで知り合った。
田島社長が片道2時間もかかるにも関わらず、何度でも悦子さんの住む実家に行き、プロポーズを繰り返した。悦子さんは「99%結婚しません」と田島社長に言うと、「それじゃ1%は望みがあるんだな」と言ったという。この超ポジティブ思考が、彼の真骨頂。悦子さんがうんと言わないと、今度は両親に頭を下げてきたという。
そして、何度も訪ねてくる田島社長を見て、悦子さんの父に「こんなに一人の男に思われているなら女として幸せじゃないのか」と言わせ、そして悦子さんは遂に結婚を決意する。正式なプロポーズから半年が経っていた。
「なぜ、あの時100%結婚しません」と言わなかったのか、なぜ「99%」と言ってしまったのか、今でも不思議だと女将さんは笑いながら語ってくれた。
しかし、悦子さんは実際に宿に入り、女将として働き始めたが、客の入りは1年前となんら変わらない。借金を返すのに精一杯の毎日が続いた。その頃を女将さんは「振り返りたくないし、思い出したくもない。」という。
特に最初の1年間は、女将さんは、いつも夕方になると寂しくなり、実家にどうやって帰ろうかなどと泣きながら考えていたという。それもそうだろう、今まで公務員の家庭で育ち、金融機関に勤めて、自営業の大変さをよく知っていたからだ。
絶対に商売をしている人には嫁がないと心に決めていたのに、結婚してしまった。その後悔の念に苛まれていたというのだ。
田島社長はその頃、新たな融資の願いを以前勤めていた金融機関に申し込んでいた。当時の売り上げは月商30万円の年商360万円。ところが融資希望額は1,650万円。通常なら、貸してくれるはずもない。融資担当者にも毎日のように出向き、銀行の開いている朝9時から午後3時まで粘り強く交渉した。まさに女将さんへのプロポーズの時のように本当に何度も足を運んだ。「このままではうちの旅館はダメになってしまう。」ただ、その一念で行動していた。しかし、担当者がノイローゼになりかけた頃、遂に支店長も音を上げた。融資の申し込みが通ったのだ。
以前の安普請の宿は、水道、温泉の整備、通路の補修など手を加えなければならない場所がたくさんあったという。女将さんにも子供ができ、地に足をつけて頑張ろうと心に決めた。
しかし、その融資も特効薬にはならず、低迷状態から抜け出せずにいた。創業時と同じ、客も工事現場の作業員がほとんどだった。「なぜうちの旅館には客が来ないんだ?」従業員も雇えず、夫婦二人で連日朝早く夜遅くまで働きながら、いっこうに良い兆しは見えない。
そのどん底の時は何度も宿をたたもうかといつも夫婦で話していたという。それでも田島社長は女将さんに励まされながら、次なる手を模索していた。
「なぜ、日本人はハワイやヨーロッパに旅行に行くのか?」ある日、田島社長はこう思った。「それは日常の違う文化に触れることに刺激や感動を求めているからではないのか」・・・と。
大げさに言えば、悟りの境地に至ったのかもしれない。実際、ここはハワイやヨーロッパでもない。ではどうするか?落ち着いて周辺の状況を眺めてみた。
当時の日本は古いものを壊し、どんどん新しい建物を作っていった時代。旅館も木造の建物から鉄筋コンクリートの建物にして収容力を増やして、大型化を競っていた時代だった。現在のような古いものをできるだけ保存していこうという発想はほとんどなかったと言っていい。
そんな中、昭和50年(1975年)、田島社長は商工会から450万円を借り受け、近所の茅葺き屋根の農家の家を移築した。現在の朝食会場「いちょうの間」である。
壊されつつあった、鹿児島の田舎の生活文化を、「雅叙苑」で継承していこうと決心したのだ。周辺に建ち並ぶよくある温泉旅館ではなく、個性的で魅力的でオンリーワンの宿を目指そうと考えたわけだ。
つまり、この年が本当の「雅叙苑」のスタートとも言っていい。遂に方向性を見つけた記念すべき年となった。世界に目を向ければ、ベトナム戦争が終結したのもこの年だった。
翌年の昭和51年(1976年)、新たに茅葺きの古民家を移築した。現在の離れ「かぜ」がそうだ。屋根が壊れていたため、無料で引き取れたらしいが、業者に屋根は直してもらい、それ以外の壁などの補修はすべて田島社長と女将さんが行った。「お金がないから自分でやるしかない。」当たり前のことだった。
昭和52年〜53年(1977年〜18年)頃になると、茅葺きの古民家をわざわざ移築して旅館を営んでいる“異端”の宿があると、噂が少しずつ広がっていった。売り上げも年商が1,000万円を超えるようになった。それでも資金繰りは苦しい。しかし、売り上げが上昇気流に乗ってきたことに田島夫妻は、心から喜んだ。そして田島社長は自分の進むべき道は間違っていないと確信できるようになった。
その頃の「雅叙苑」は、創業時に建てた木造2階建ての客室5室と、移築した茅葺きの古民家「かぜ」の合計6室と、同じく茅葺きの食事会場「いちょうの間」という構成で営業していた。
昭和53年(1978年)、田島社長は、離れの古民家「かぜ」に、その後、旅館業界で大きな影響を及ぼすリニューアルを施すことになる。客室に専用の「露天風呂」を備えたのである。
現在は空前の「露天風呂付き客室ブーム」と言っていい。ほとんどの旅館は改装の際に、客室露天風呂を造る計画を立てる。それを今から30年も前に世に出したのだから、田島社長のセンスには恐れ入る。
この年は当時日本一の高層ビル、サンシャイン60が東京・池袋に完成、キャンディーズが解散、サザンオールスターズがデビュー、NHKで宮崎駿監督の「未来少年コナン」の放送開始、そしてプロ野球では江川卓のいわゆる「空白の一日」のあった年であった。
昭和55年(1980年)、さらなる勝負に打って出る。創業時に建てた木造2階建ての建物(5部屋)を壊し、そこに新たに霧島から移築した瓦葺きの家屋を2軒移築し、それをつなげて4部屋造った。それが現在の天降川沿いにある「そら」「くさ」「ひかり」「みず」の4部屋だ。そして「そら」と「くさ」には客室露天風呂を造った。この時点で「雅叙苑」は合計たった5部屋の宿ながら3室の露天風呂付き客室を持つことになった。
同時に現在、フロント、売店として使っている茅葺きの古民家を、瓦葺きの建物「そら」「くさ」「ひかり」「みず」の向かい側に移築した。これはもともと馬小屋だったらしいが、囲炉裏もそのまま再現させたという。
また、もともと先代からあった天降川沿いの「混浴露天風呂」と「うたせラムネ湯」を浴場として使っていたが、新たに男女別の浴場を造った。それが「建(たける)湯」だ。
そして、この年、マスコミによる取材を初めて受けた。地元の新聞社だった。
ある記者が茅葺きの建物をテーマに取材先を探していたが、いっこうに見つからず、偶然通りかかったら、茅葺きの屋根が見えたので、アポイント無しで訪れたという。それが旅館だったということを知って当時の記者は驚いて帰ったとの事。
しかし、それが記事になり、その後もマスコミに少しずつ取り上げられるようになった。そして、従業員も何人か雇えるようになった。ようやく事業が軌道に乗り出したのもこの年だ。ここで田島社長はマスコミの力を初めて知ることになる。
その後、日本テレビで当時、大橋巨泉司会の、深夜番組「イレブンPM」の中で、女性モデルが全裸に近い状態で露天風呂を紹介するコーナーが人気を博していた。そこで「混浴露天風呂」が紹介された。これが「雅叙苑」が全国ネットのテレビに初めて登場した取材だったかもしれない。
世の中はいつの間にか「露天風呂ブーム」になっていた。「雅叙苑」が、時代のトップランナーとして走り始めたのはこの頃からだ。
お客がみるみる増えてきた。たった5室では対応しきれないようになった。そこで昭和59年(1984年)、さらに道路側の斜面に「べに」「もみじ」「さくら」「けやき」の4棟の茅葺きの離れを造った。これも地元の古民家だが、傷みも激しかったので、使える柱などは利用したが、残りは新しく材料を使って完成させた。こちらも、もちろん露天風呂付きの客室となる。これで全9室の構成となった。
この頃は、植村直己がマッキンリー山登頂成功(その後行方不明)、グリコ森永事件などがあった年である。
昭和63年(1988年)、ついに10室目の客室を完成させる。一番奥の道路側の傾斜地に建てたのは、露天風呂付き離れ特別室「椿」だった。
宿泊料金も5万円前後ということで、女将さん曰く「他の部屋がいつもいっぱいだから、あまりお客が入らない部屋があっても面白いかもね。」・・・ということだったが、実際は違った。これも予約が殺到したのだ。
当時はバブル経済の時代。お金が余っている風潮だった。しかしながら、現在でも「椿」の人気は高い。
多くの文化人、芸能人がこの部屋を選択し、リピーターとなった。
そして、この「椿」の完成により、「忘れの里 雅叙苑」の完成形を見ることになった。
昭和45年の創業以来、「オンリーワンの宿」がとりあえず、形となったのだ。
この「雅叙苑」の成功は、多くの旅館関係者に多大な影響を与えた。こぞって、この宿を視察に来た。
それは人気旅館の宿命。その宿に売れる要素があれば、いくらでも模倣し、いくらでも自分の宿に取り込む。
いつの間にか、日本中に「雅叙苑」もどきの離れ旅館が次々に誕生していった。
平成5年(1993年)、田島社長は、次なる一手を打ち出した。「次やるのは誰にもマネされないことをやってみよう。」
それが「天空の森」構想の出発点だ。そして「温泉」というキーワードの他に「リゾート」という考え方を取り入れた究極の「温泉リゾート」。そして次なる「オンリーワン」を作るべく、動き出したのだ。
この頃から「雅叙苑」は女将さんが主導、田島社長は「天空の森」にかかりきりとなる。
「天空の森」は、わかりやすく言うと、「山一つ、一組のお客様のために貸切にしますよ」という提案のリゾート施設。現在、敷地は15万坪、東京ドーム10個分の敷地に宿泊ヴィラが3棟、日帰り専用ヴィラが2棟の合計5棟しかないという贅沢な空間が広がっている。「雅叙苑」からはクルマで10分ほどの距離だ。
その山にはいたるところに畑があり、年間30種類もの野菜が栽培されているという。敷地内には枯葉や鶏糞を集めて腐葉土を作る場所もあるなど、まさに「天空の森」はエコの王国なのだ。
現在の「天空の森」は「雅叙苑」の宿泊とセットになった、いわゆる「野遊び」プランが好評となっている。
「雅叙苑」に宿泊して、「天空の森」でピクニックランチをいただき、昼間の間、露天風呂付きの専用ヴィラで過ごすというものだ。
日帰りのヴィラは「花散る里」と「つばめの巣」の2つ。もちろん「雅叙苑」からの送迎も付いている。
お一人様料金4時間31,500円、6時間42,000円。すべてサービス料、税金込み。ピクニックランチやドリンク類はすべて料金に含まれる。オプションでエステも受けられるという。
また、9時から20時までの間の最長10時間施設を利用できる、ワンデイエスケープ52,500円というプランもある。
ヴィラ「花散る里」は、天気が良ければ、遠くは栗野岳、韓国岳、高千穂峰を望む大パノラマを眺めることができる。ハンモックも備える。リビング棟にはベッドの代用になるような大きなソファもある。エステ用のベッドも屋外にあった。オープンのウッドテラスも広々としていて「天空の森」の中でも開放感は群を抜く。
「つばめの巣」はその名の通り、露天風呂に浸かると山を見下ろすその感覚は、まるで鳥の巣にいるように"浮遊感"たっぷりだ。リビング棟には大きなベッドが備わり、そのベッドからも絶景を堪能できるのだ。敷地面積は同じ日帰り施設の「花散る里」には及ばないが、コンパクトな包まれ感と露天風呂の開放感を両方味わえるヴィラなのだ。
平成10年(1998年)、「雅叙苑」は外来入浴の営業をやめた。同時にチェックインの時間を13時。チェックアウトの時間を12時とした。
これも時代の先取りなのか、お客様のニーズを汲み取っての決断に他ならない。温泉旅館が苦手な人の理由は、朝食が早い、朝は電話でたたき起こされる・・・などというように、せっかくの休みなのに寝坊ができない。
チェックイン時は大歓迎、翌朝のチェックアウト時は追い出しされるような錯覚を感じてしまう。よくある温泉旅館の朝のワンシーンでもある。
それではお客様はついてきてくれない。宿の運営上、インが13時、アウトが12時など、大変に決まっている。でもそれをやらないとお客様が納得してくれない。
ここまでこだわるからこそ「雅叙苑」の人気は衰えない。
今、思えば田島社長の眼力、人を見る目が凄いと思ってしまう。
この女将さんなくしては、今の「雅叙苑」の成功、そして「天空の森」の具現化はあり得ない。
創業から地獄のような10年間があったからこそ、今の「雅叙苑」がある。その結果、この宿には他の宿にはない、言葉で言い表せないほどの魅力が満ち溢れている。
田島社長は、宿が軌道に乗る数年前から、「日本一の宿を作る」とあらゆる人に吹聴していたという。明日のお金もままならない状態の宿の社長が言うべきことではないが、とにかく会う人ほとんどに公言していたという。
それが、実際に具現化し、現在の成功に辿り着いているわけだが、
実際に口に出すことにより、自分自身にプレッシャーをかけ、鼓舞していたのかもしれない。
それも女将さんの悦子さんがいればこそだ。女将さんは、実務派の方。行動と実践の社長と女将さんの現実とトレンドを見極める目があったからこそ、ここまでの旅館を造り上げる事ができた。
まさにお互いは理想のパートナーと言えるだろう。
この宿のノスタルジックな雰囲気は、年配者にとって懐かしく感じるし、若い人たちにとっては、異国の風情も感じとるかもしれない。
いずれにせよ、非日常の空間がここにあり、ある人にとって、ここは単なる旅館ではなく、故郷に近い存在と思っているのかもしれない。
田島健夫さんと悦子さん夫婦による汗と涙の結晶といえば、安易に聞こえるかもしれないが、このお二人の力によって、私たちはこの奇跡的な宿に巡り会う事ができた事は確かだ。
この宿は、今さら料理がどうだ、客室がどうだ、温泉がどうだ・・・と評論すべきところではないような気がする。
これだけ、他の旅館、他の温泉地に影響を与えたのだから。今や全国区の人気温泉地となった黒川温泉などその代表格だ。
そういった事を考慮すれば、「雅叙苑」は、まさに殿堂入りの宿なのだ。改めて“本物”の凄さを感じさせてくれた取材でもあった。(J)