現在の「忘れの里 雅叙苑」の人気ぶりは、いまさら語ることもないだろうが、それは一朝一夕にできたわけではもちろんない。
オーナー田島健夫さん(昭和20年生まれ)と女将さんの悦子さん(昭和22年生まれ)の苦労と努力があったからこそ、今の「雅叙苑」があるのだ。
「雅叙苑」の創業は昭和45年(1970年)4月。
木造2階建ての建物で、1階が広間で2階に客室が5つあるだけの小さな宿であった。今や全国区の人気を誇り、憧れの宿として名をはせている宿の面影は、その当時はなかった。いわゆる安普請の宿であった。田島社長、25歳の時である。
・・・・・田島健夫さんは、古くから湯治場を営む家の次男として生まれた。
大学卒業後、鹿児島市内の金融機関に就職する。ところが、そろばんが不得手、そして何といっても事務処理の仕事が苦手で、すぐに外回りの仕事に変えられたという。
昭和45年は、日本は高度成長期の頃、日航機よど号ハイジャック事件、ビートルズが解散、プロ野球・読売ジャイアンツがV6・・・などがあった年だ。
国内の旅行業界を振り返ると、団塊の世代による新婚旅行ブームの真っ只中の時代であった。その旅行先で人気だったのは宮崎、大分(別府)、鹿児島(霧島)といった九州の観光地。
金融機関に勤めながらも、その現象のもの凄さを感じ、実家の母親に地元客相手の湯治旅館ではなくて、新婚旅行の客が訪れるような観光旅館をやらねば・・・と説いていた。実際に九州の旅館・ホテルは空前の好景気に沸いていた。
「それなら自分でやってみろ。」この一言で健夫さんは宿を新たに作る事を決意する。「雅叙苑」の誕生のきっかけがこれだ。
現在の宿の敷地は、もともと田島家が持っていた土地で、湯治旅館「たじま本館」の小さな別館が建っていた。それが大雨で流されて激甚災害の認定を受け、復興資金として1,000万円を貸してくれるという状況も、宿運営に走らせた。
すぐに金融機関を退社し、前述の木造2階建て、客室数5室の宿を作ったのだ。
「これから新婚のお客さんが来る!」田島社長は確信していた。
ところが実際は違った。まったく新婚客が来なかったのだ。
客といえば、当時、九州電力のダム工事に携わっていた土木作業員がほとんどだった。
ハネムーン旅館になるはずが、飯場のような宿になってしまった。
そんな折り、田島社長は現在の女将さん、悦子さんと翌年の昭和46年4月10日に結婚する。
悦子さんも別の金融機関で働いていた。同業の金融機関同士でバレーボール大会などの集まりがあり、そこで知り合った。
田島社長が片道2時間もかかるにも関わらず、何度でも悦子さんの住む実家に行き、プロポーズを繰り返した。
悦子さんは「99%結婚しません」と田島社長に言うと、「それじゃ1%は望みがあるんだな」と言ったという。この超ポジティブ思考が、彼の真骨頂。
悦子さんがうんと言わないと、今度は両親に頭を下げてきたという。
そして、何度も訪ねてくる田島社長を見て、悦子さんの父に「こんなに一人の男に思われているなら女として幸せじゃないのか」と言わせ、そして悦子さんは遂に結婚を決意する。正式なプロポーズから半年が経っていた。
「なぜ、あの時100%結婚しません」と言わなかったのか、なぜ「99%」と言ってしまったのか、今でも不思議だと女将さんは笑いながら語ってくれた。
しかし、悦子さんは実際に宿に入り、女将として働き始めたが、客の入りは1年前となんら変わらない。借金を返すのに精一杯の毎日が続いた。
その頃を女将さんは「振り返りたくないし、思い出したくもない。」という。
特に最初の1年間は、女将さんは、いつも夕方になると寂しくなり、実家にどうやって帰ろうかなどと泣きながら考えていたという。
それもそうだろう、今まで公務員の家庭で育ち、金融機関に勤めて、自営業の大変さをよく知っていたからだ。
絶対に商売をしている人には嫁がないと心に決めていたのに、結婚してしまった。その後悔の念に苛まれていたというのだ。
田島社長はその頃、新たな融資の願いを以前勤めていた金融機関に申し込んでいた。
当時の売り上げは月商30万円の年商360万円。
ところが融資希望額は1,650万円。通常なら、貸してくれるはずもない。
融資担当者にも毎日のように出向き、銀行の開いている朝9時から午後3時まで粘り強く交渉した。まさに女将さんへのプロポーズの時のように本当に何度も足を運んだ。
「このままではうちの旅館はダメになってしまう。」ただ、その一念で行動していた。
しかし、担当者がノイローゼになりかけた頃、遂に支店長も音を上げた。融資の申し込みが通ったのだ。
以前の安普請の宿は、水道、温泉の整備、通路の補修など手を加えなければならない場所がたくさんあったという。女将さんにも子供ができ、地に足をつけて頑張ろうと心に決めた。
しかし、その融資も特効薬にはならず、低迷状態から抜け出せずにいた。
創業時と同じ、客も工事現場の作業員がほとんどだった。
「なぜうちの旅館には客が来ないんだ?」従業員も雇えず、夫婦二人で連日朝早く夜遅くまで働きながら、いっこうに良い兆しは見えない。
そのどん底の時は何度も宿をたたもうかといつも夫婦で話していたという。
それでも田島社長は女将さんに励まされながら、次なる手を模索していた。
「なぜ、日本人はハワイやヨーロッパに旅行に行くのか?」ある日、田島社長はこう思った。
「それは日常の違う文化に触れることに刺激や感動を求めているからではないのか」・・・と。
大げさに言えば、悟りの境地に至ったのかもしれない。実際、ここはハワイやヨーロッパでもない。ではどうするか?落ち着いて周辺の状況を眺めてみた。
当時の日本は古いものを壊し、どんどん新しい建物を作っていった時代。
旅館も木造の建物から鉄筋コンクリートの建物にして収容力を増やして、大型化を競っていた時代だった。
現在のような古いものをできるだけ保存していこうという発想はほとんどなかったと言っていい。
そんな中、昭和50年(1975年)、田島社長は商工会から450万円を借り受け、近所の茅葺き屋根の農家の家を移築した。現在の朝食会場「いちょうの間」である。
壊されつつあった、鹿児島の田舎の生活文化を、「雅叙苑」で継承していこうと決心したのだ。
周辺に建ち並ぶよくある温泉旅館ではなく、個性的で魅力的でオンリーワンの宿を目指そうと考えたわけだ。
つまり、この年が本当の「雅叙苑」のスタートとも言っていい。
遂に方向性を見つけた記念すべき年となった。
世界に目を向ければ、ベトナム戦争が終結したのもこの年だった。

翌年の昭和51年(1976年)、新たに茅葺きの古民家を移築した。
現在の離れ「かぜ」がそうだ。屋根が壊れていたため、無料で引き取れたらしいが、業者に屋根は直してもらい、それ以外の壁などの補修はすべて田島社長と女将さんが行った。
「お金がないから自分でやるしかない。」当たり前のことだった。
昭和52年〜53年(1977年〜18年)頃になると、茅葺きの古民家をわざわざ移築して旅館を営んでいる"異端"の宿があると、噂が少しずつ広がっていった。
売り上げも年商が1,000万円を超えるようになった。
それでも資金繰りは苦しい。しかし、売り上げが上昇気流に乗ってきたことに田島夫妻は、心から喜んだ。そして田島社長は自分の進むべき道は間違っていないと確信できるようになった。
その頃の「雅叙苑」は、創業時に建てた木造2階建ての客室5室と、移築した茅葺きの古民家「かぜ」の合計6室と、同じく茅葺きの食事会場「いちょうの間」という構成で営業していた。
昭和53年(1978年)、田島社長は、離れの古民家「かぜ」に、その後、旅館業界で大きな影響を及ぼすリニューアルを施すことになる。客室に専用の「露天風呂」を備えたのである。
現在は空前の「露天風呂付き客室ブーム」と言っていい。
ほとんどの旅館は改装の際に、客室露天風呂を造る計画を立てる。
それを今から30年も前に世に出したのだから、田島社長のセンスには恐れ入る。
この年は当時日本一の高層ビル、サンシャイン60が東京・池袋に完成、キャンディーズが解散、サザンオールスターズがデビュー、NHKで宮崎駿監督の「未来少年コナン」の放送開始、そしてプロ野球では江川卓のいわゆる「空白の一日」のあった年であった。
昭和55年(1980年)、さらなる勝負に打って出る。
創業時に建てた木造2階建ての建物(5部屋)を壊し、そこに新たに霧島から移築した瓦葺きの家屋を2軒移築し、それをつなげて4部屋造った。
それが現在の天降川沿いにある「そら」「くさ」「ひかり」「みず」の4部屋だ。
そして「そら」と「くさ」には客室露天風呂を造った。
この時点で「雅叙苑」は合計たった5部屋の宿ながら3室の露天風呂付き客室を持つことになった。
同時に現在、「囲炉裏小屋」「不忘舎」として使っている茅葺きの古民家を、瓦葺きの建物「そら」「くさ」「ひかり」「みず」の向かい側に移築した。
これはもともと馬小屋だったらしいが、囲炉裏もそのまま再現させたという。
また、もともと先代からあった天降川沿いの「混浴露天風呂」(現在は足湯)と「うたせラムネ湯」を浴場として使っていたが、新たに男女別の浴場を造った。それが「建(たける)湯」だ。
そして、この年、マスコミによる取材を初めて受けた。地元の新聞社だった。
ある記者が茅葺きの建物をテーマに取材先を探していたが、いっこうに見つからず、偶然通りかかったら、茅葺きの屋根が見えたので、アポイント無しで訪れたという。
それが旅館だったということを知って当時の記者は驚いて帰ったとの事。
しかし、それが記事になり、その後もマスコミに少しずつ取り上げられるようになった。
そして、従業員も何人か雇えるようになった。ようやく事業が軌道に乗り出したのもこの年だ。
ここで田島社長はマスコミの力を初めて知ることになる。
その後、日本テレビで当時、大橋巨泉司会の、深夜番組「イレブンPM」の中で、女性モデルが全裸に近い状態で露天風呂を紹介するコーナーが人気を博していた。
そこで「混浴露天風呂」が紹介された。これが「雅叙苑」が全国ネットのテレビに初めて登場した取材だったかもしれない。
世の中はいつの間にか「露天風呂ブーム」になっていた。
「雅叙苑」が、時代のトップランナーとして走り始めたのはこの頃からだ。
お客がみるみる増えてきた。たった5室では対応しきれないようになった。
そこで昭和59年(1984年)、さらに道路側の斜面に「べに」「もみじ」「さくら」「けやき」の4棟の茅葺きの離れを造った。
これも地元の古民家だが、傷みも激しかったので、使える柱などは利用したが、残りは新しく材料を使って完成させた。
こちらも、もちろん露天風呂付きの客室となる。これで全9室の構成となった。
この頃は、植村直己がマッキンリー山登頂成功(その後行方不明)、グリコ森永事件などがあった年である。

昭和63年(1988年)、ついに10室目の客室を完成させる。
一番奥の道路側の傾斜地に建てたのは、露天風呂付き離れ特別室「椿」だった。
宿泊料金も5万円前後ということで、女将さん曰く「他の部屋がいつもいっぱいだから、あまりお客が入らない部屋があっても面白いかもね。」・・・ということだったが、実際は違った。これも予約が殺到したのだ。
当時はバブル経済の時代。お金が余っている風潮だった。しかしながら、現在でも「椿」の人気は高い。
多くの文化人、芸能人がこの部屋を選択し、リピーターとなった。
そして、この「椿」の完成により、「忘れの里 雅叙苑」の完成形を見ることになった。
昭和45年の創業以来、「オンリーワンの宿」がとりあえず、形となったのだ。
この「雅叙苑」の成功は、多くの旅館関係者に多大な影響を与えた。こぞって、この宿を視察に来た。
それは人気旅館の宿命。その宿に売れる要素があれば、いくらでも模倣し、いくらでも自分の宿に取り込む。
いつの間にか、日本中に「雅叙苑」もどきの離れ旅館が次々に誕生していった。
平成5年(1993年)、田島社長は、次なる一手を打ち出した。「次やるのは誰にもマネされないことをやってみよう。」
それが「天空の森」構想の出発点だ。そして「温泉」というキーワードの他に「リゾート」という考え方を取り入れた究極の「温泉リゾート」。そして次なる「オンリーワン」を作るべく、動き出したのだ。
この頃から「雅叙苑」は女将さんが主導、田島社長は「天空の森」にかかりきりとなる。
平成10年(1998年)、「雅叙苑」は外来入浴の営業をやめた。同時にチェックアウトの時間を12時。チェックインを12時とした。その時間差、なんと1時間!
これも時代の先取りなのか、お客様のニーズを汲み取っての決断に他ならない。
温泉旅館が苦手な人の理由は、朝食が早い、朝は電話でたたき起こされる・・・などというように、せっかくの休みなのに寝坊ができない。
チェックイン時は大歓迎、翌朝のチェックアウト時は追い出しされるような錯覚を感じてしまう。
よくある温泉旅館の朝のワンシーンでもある。
それではお客様はついてきてくれない。
宿の運営上、インが13時、アウトが12時など、大変に決まっている。
でもそれをやらないとお客様が納得してくれない。
ここまでこだわるからこそ「雅叙苑」の人気は衰えない。

今、思えば田島社長の眼力、人を見る目が凄いと思ってしまう。
この女将さんなくしては、今の「雅叙苑」の成功、そして「天空の森」の具現化はあり得ない。
創業から地獄のような10年間があったからこそ、今の「雅叙苑」がある。
その結果、この宿には他にはない、言葉で言い表せないほどの魅力が満ち溢れている。
田島社長は、宿が軌道に乗る数年前から、「日本一の宿を作る」とあらゆる人に吹聴していたという。
明日のお金もままならない状態の宿の社長が言うべきことではないが、とにかく会う人ほとんどに公言していたという。
それが、実際に具現化し、現在の成功に辿り着いているわけだが、
実際に口に出すことにより、自分自身にプレッシャーをかけ、鼓舞していたのかもしれない。
それも女将さんの悦子さんがいればこそだ。
女将さんは、実務派の方。行動と実践の社長と女将さんの現実とトレンドを見極める目があったからこそ、ここまでの旅館を造り上げる事ができた。
まさにお互いは理想のパートナーと言えるだろう。
現在は田島夫婦の次女・山崎恵美子さん(昭和53年生まれ)も、若女将として、ご主人であり調理主任である山崎淳一さんといっしょに、この宿を支えている。
恵美子さんは、司法書士関係の短大(北海道・帯広)を出たあと、鹿児島に戻って東急ホテルで働いていたが、そこでご主人と出会ったらしい。
やはり、宿の子のDNAなのか、料理人である人をパートナーに選ぶという事は、自ら将来の「雅叙苑」を引き継いでいく事の意思表示の表れのようでもある。
「忘れの里 雅叙苑」は、鹿児島という場所にありながら、特に芸能人に支持されている宿としても有名だ。
ある人から言わせれば「いつかは雅叙苑・・・」といった、ある種、成功した人たちの宿、目標とする宿なのかもしれない。
最近宿泊した方をあげても、長渕剛、稲葉浩志(B'z)、木村拓哉、反町隆史、黒木瞳、みのもんた・・・(敬称略)など、枚挙に暇がない。
たまに、テレビで憧れの宿特集を組む際に登場する所以でもある。
この宿のノスタルジックな雰囲気は、年配者にとって懐かしく感じるし、若い人たちにとっては、異国の風情も感じ取るかもしれない。
いずれにせよ、非日常の空間がここにあり、ある人にとって、ここは単なる旅館ではなく、故郷に近い存在と思っているのかもしれない。
田島健夫さんと悦子さん夫婦による汗と涙の結晶といえば、安易に聞こえるかもしれないが、このお二人の力によって、私たちはこの奇跡的な宿に巡り会う事ができた事は確かだ。
この宿は、今さら料理がどうだ、客室がどうだ、温泉がどうだ・・・と評論すべきところではないような気がする。
これだけ、他の旅館、他の温泉地に影響を与えたのだから。
今や全国区の人気温泉地となった熊本の黒川温泉などその代表格だ。
黒川温泉は、温泉地全体を、1つの旅館とみなし、宿を客室とみせて、統一感を表現した。
それはひとつの小さな旅館「雅叙苑」そのものが、小さな村を表現し、茅葺きの離れが、それぞれの生活空間に見立ててアピールした事にインスパイアされたのだ。
そういった事を考慮すれば、「雅叙苑」は、まさに殿堂入りの宿なのだ。
この宿の本当の良さが分かるのは、やはり旅慣れた方になるだろう。
根底に流れる意思の強さ、アイデンティティ、そしてカリスマ性は、他では見られない。
さらに言えば、温泉旅館の潮流を作った点は、あの幕末における薩摩藩のようなエネルギーを感じるのは私だけであろうか。
現代に、坂本龍馬とおりょうが、タイムスリップして新婚旅行をするなら、この「忘れの里 雅叙苑」のような気がする。
というか、ここほどあのご両人に似合う宿はない。
是非、お二人で、日本初(世界初?)となる客室露天風呂に入っていただきたいものだ。(J)