東北新幹線「那須塩原駅」から国道400号線を渓谷沿いに上っていくと、次々と温泉が現れる。塩原温泉郷だ。
塩原温泉郷は大同元年(806年)に発見された長い歴史を持つ温泉地だ。箒川沿いを中心とした11箇所に点在している湯元の総称として「温泉郷」と呼ばれ、古くから「塩原十一湯」として親しまれてきた。
163もの源泉数を誇り、東日本屈指の良質な温泉が1200年もの間コンコンと湧き出ているこの地は、明治の頃より多くの文豪から愛された場所でもある。明治17年(1884年)に塩原街道が開通し、夏目漱石、斉藤茂吉、谷崎潤一郎などの文豪が訪れ、尾崎紅葉の「金色夜叉」はこの地で生まれた。訪れた文豪たちによって塩原温泉郷の美しさが広く紹介され、塩原温泉郷の名は全国区となったのだ。ちなみに、1918年に小説家・田山花袋が出版した「温泉めぐり」において塩原十一湯を温泉郷と評した。これが複数の温泉の総称として温泉郷という表現を用いた最初の事例とされている。
温泉宿の他に、古くからの共同浴場があるのも塩原の特徴だ。また、「岩の湯」「不動の湯」などの無人露天風呂もある。駐車場を含め、設備らしいものはまったくなく、温泉を管理している人のための寸志を入れる箱があるだけで、脱衣所、浴場ともに男女の区別がない混浴だ。まさに自然と一体になってのびのびと湯に浸かる楽しさは格別で、秘湯ファンのみならず、地元や観光客の人気も高い。
その塩原温泉郷の入り口には大網温泉がある。遡上してきた魚が滝に阻まれてそれ以上遡上できず、まるで大網を仕掛けたかのように大量な魚を獲ることができたといういわれから、「大網」と名付けられたという。
山間を通る曲がりくねった国道400号線を、その大網温泉まで進むと、突如近代的な建物が現れる。「湯守田中屋」である。そこまでの道のりであまり建物を見ることが少ないせいか異様なまでに大きく感じてしまうが、全体的な造りはホテルというより、やはり旅館の風情がしっかり漂う佇まいだ。
玄関を入ると正面がフロント、左手がロビーとなっている。ロビーにはウエルカムサービスとして、大きな鍋で煮られた玉こんにゃくが置いてある。部屋に行く前に玉こんにゃくをいただきながら、ロビーで寛ぐのも良いだろう。また、玄関横には飲泉所があり、飲泉効果たっぷりの温泉を飲むことができる。まずはロビーに荷物を置いて、道中の凝りを解しながらそれら館内施設を利用することをお薦めしたい。
「湯守田中屋」の客室は全26室。和室が16室、和洋室が9室、洋室が1室となっていて、そのうち3室が露天風呂付きの特別室という構成だ。最上階の7階に男性用大浴場、6階に女性用大浴場がある。こちらの名物なっている渓流野天風呂は、一度宿を出て通りを渡り、急な階段を下った先にある。貸切風呂も、同じく通りを隔てたところに設置されている。
客室は全部で4つのタイプに別れている。タイプAが露天風呂付き特別室の「722号室」と「721号室」。それぞれ12.5帖と6帖の次の間になっていて、広縁、バス、トイレ、さらに源泉100%掛け流しの露天風呂が付く。両客室とも7階からの眺望を楽しみながら好きな時に好きなだけ源泉100%掛け流しの湯を堪能できるとあって、やはりカップルや家族に人気の部屋となっている。また「722号室」には茶室も付き、より広いスペースとなっているのが特徴。
タイプBは檜風呂付き特別室の「412号室」。こちらは和洋室になっていて、10帖の和室と2ベッドという間取りだ。内風呂はないが、その代わりに半露天タイプの檜風呂がある。浴室内にはもちろんシャワーが完備されている。洗面所とトイレはバリアフリー対応になっていて、広いスペースが確保されている。
同じくタイプBの温泉内風呂付き特別室「312号室」は、完全な洋室。2ベッドの他に33uのフローリングになっていて、シンプルながらもモダンな造りが特徴。風呂は内風呂だが、そのまま源泉が出るので、上質な湯での湯浴みが可能。この部屋も洗面所とバスルームはバリアフリー対応になっているので、高齢のご両親との孝行旅行などにピッタリだ。
タイプCは和洋室が2室と和室が4室用意されている。和洋室は6帖の和室に2ベッドという間取りに、トイレとシャワー室が付く。和室は12.5帖+6帖+広縁、ユニットバス付き。
スタンダードなタイプDは和洋室が6室、和室が10室となる。和洋室は6帖の和室に2ベッドという間取りにユニットバスが付く。和室は10帖+広縁に、こちらもユニットバス。
部屋でしばし寛いだら、次は温泉だ。大浴場は男性用が7階、女性用が6階にそれぞれあり、湯舟の数や設備はまったく同じだ。全身浴、ジャグジー、寝湯、サウナがあり、両大浴場とも源泉100%掛け流しになっている。ただし、寝湯だけは加水による温度調整がなされているが、浴室の性質上これは仕方ない。しかし、程よい温度に設定された湯に寝転びながら、眼前に広がる山の景観を楽しむ時間は、極上のひとときを味わえる。
また、ぜひとも体感してもらいたいのは、箒川(ほうきがわ)の渓流を眼前に望める4つの野天風呂だ。こちらの風呂へ行くには、一度宿を出て国道を渡らなければならない。出てすぐ目の前に野天風呂への入口を示す看板があり、渓谷の下まで続く長い石段が現れる。下を窺うことができない急な階段に、帰りのことを考え一瞬躊躇いを感じるかもしれない。が、ここは頑張ってチャレンジして欲しい。途中にはちゃんと休憩所もあるので、ゆっくり自分のペースで上り下りすればそれほど苦にはならないはずだ。
約320段の階段を下ると、最初に女性専用の露天風呂「美人の湯」が見えてくる。4つある野天風呂の中で、ここだけ女性専用になっている。それ以外は混浴となっているので、混浴に抵抗のある女性はこの「美人の湯」を利用すると良いだろう。
そこからさらに数段下りたところが、混浴野天風呂の「仙郷湯」だ。大きな湯船は大人20人が楽々浸かれる広さ。目の前の美しい渓谷と清流を眺めながらの湯浴みは、最高に贅沢な時間だ。
その下にもまだ湯船がある。「仙郷湯(せんきょうのゆ)」から階段を下りたすぐにある「岩門湯(いわまのゆ)」だ。岩場を枡形に切り取ったような湯船は4人くらいで浸かるのがちょうど良い大きさのこぢんまりした野天風呂だ。しかも、ここだけ源泉が別で、なんと自然湧出の新鮮な湯が堪能できるのだ。
そして一番下にあるのが「河原湯(かわらのゆ)」である。まさに箒川にせり出すような位置にあり、コンクリートの屋根で覆われた半野天風呂だ。あたかも川に浸かっていうるような錯覚さえ起こしてしまう、野趣溢れる湯浴みを体験できる。
ちなみにこちらの野天風呂はフロントで800円支払えば日帰り利用も可能だ。
どうしても階段の上り下りはキツい、という方には「渓流露天風呂」も用意されている。こちらは19:30から貸切利用できる風呂なのだが、それまでは男女別の露天風呂になっているのだ。こちらは野天風呂とは反対の入口から階段を1階分下りたところにあるので、長く急な階段の上り下りはちょっと、という方でも気軽に利用できるだろう。また、宿泊客専用になっているので、ゆっくり楽しめるのも嬉しい。
さて、館内施設や風呂を堪能したら、次は料理だ。「湯守田中屋」では、予約の際に2つのコースから料理を選べるようになっている。1つはゆったりと部屋で味わう富山産の魚介を使った「湯守会席膳」。もう1つは食事処でいただく「囲炉裏料理」だ。ç
取材時(2008年5月)にいただいたのは「囲炉裏料理」のコース。以下に紹介する。
食前酒は自家製の柚子酒。先付けはみず含め煮。前菜は準菜、茗荷寿司、鮎甘露煮の盛り合わせだ。鮎は近所の鮎専門店から仕入れている新鮮な鮎を使用。
凌ぎは一口手打ちそば。そばは料理長の知り合いから仕入れた県内産の蕎麦粉を使用し、ほぼ毎日打つという。コシがあって喉越しもよく、凌ぎとはいえ一口なのが残念なほど美味しい。
焼き物は、「湯守田中屋」の名物の「囲炉裏焼」だ。肉は牛、鶏、豚の3種類で、牛は高級な栃木和牛、鶏は地鶏のネックをつくねにして、豚は、料理長がその味に惚れ込んだ近くの養豚場が育てているオリジナル豚を直に仕入れている。特製のミソ、タレ、岩塩、塩コショウが用意されているので、お好みでいただけけるようになっている。岩魚はもちろん箒川で獲れたものを事前にじっくり炭火で焼き上げ、食べる直前に囲炉裏に持ってきてくれる。ちなみに6月から10月の間は鮎になる。
その他に味噌の焦げる香ばしさが食欲をそそる五平餅、野菜は筍、温泉茄子、白美人(群馬のブランド葱)、アスパラガス、椎茸と、盛りだくさんの食材が並ぶ。白美人とは群馬のブランド葱で、柔らかく生食でも食べられるほどクセがない。温泉茄子は喜連川温泉周辺で採れる茄子で、冬場の寒い時期に温室を温泉の蒸気で温めることからその名が付いたという。
酢の物は生ゆばと八汐鱒のポン酢和え。八汐鱒は栃木県特産の刺身用の高級鱒で、程よく脂身がのった旨味と、鮮やかなオレンジ色が特徴。
食事は筍ご飯と軍鶏汁に香の物。近くの山で採れた新鮮な筍がたっぷり入ったご飯と、ダイコン、ニンジン、ネギに軍鶏の出汁が染み込んだ汁。
デザートには抹茶ムースの苺添えが出された。抹茶の程よい苦味がムースの甘みを抑えているので、甘いものが苦手という人にも食べやすい味だ。苺はもちろん栃おとめ。
炉端で炭の爆ぜる音に耳を澄ませながらいただく囲炉裏料理をはじめ、提供される料理は極力地産池消にこだわって素材を集めている。料理の味はもちろん、囲炉裏という野趣溢れるスタイルも宿泊客からも好評をいただいているという。
朝食は朝食会場で頂くバイキング形式だった。カブとキュウリの浅漬け、明太子、梅干、シラス大根、味美菜のおひたし、フキ味噌、きゃらぶき、塩原高原大根と牛スジの煮込み、湯豆腐、鮭の塩焼き、ボイルドウインナー、納豆、飛龍頭(おからを揚げたもの)、カレイの一夜干しが並んだ。また、毎朝料理長が目の前で焼いてくれる玉子焼きは、出来立てのアツアツをいただけるので、非常に嬉しい。
バイキングスタイルでは、冷めた作り置きの料理が並ぶことも少なくないが、こちらは温かいものは温かく、冷たいものは冷たく出してもらえるので、たくさんの味を少量ずつ存分に味わえた。
チェックアウト前には1階にあるお土産コーナーのチェックもお忘れなく。「御用饅頭」(\840)などの銘菓をはじめ、地元の特産物が豊富に揃っている。また、特設コーナーが設けられている「栃木のお酒」は、ワイン、焼酎、日本酒など、様々な種類のお酒が置いてあり人気だという。特に「湯守田中屋」オリジナルの日本酒「大吟醸 花酔」は、お酒好きの方はもちろん、旅の思い出にと購入されるお客様も多いとのこと。
また、周辺の観光スポットも見所満載だ。箒川沿いには渓谷美を堪能できる箇所が至るところにあり、中でも宿から徒歩でも行くことのできる「竜化の滝」は、ぜひオススメしたい。塩原十名瀑の一つで、全長130メートルの落差を三段になって流れ落ちる雄大な滝。その様はまるで天に昇る竜の姿を想起させることから「竜化」な名が付いたという。国道沿いに入口があり、そこから滝までの道のりは群生する植物や川のせせらぎのみが響く静謐な空間になっていて、癒しも含めた散策が楽しめるのだ。
その他にも箒川に架かるいくつもの吊橋や渓谷歩道など、四季の自然を体中で体感できる場所がそこかしこに点在しているので、それら美しい風景を目に焼き付けて帰ると、いい旅の思い出になることだろう。
大網温泉にただ一軒佇む「湯守田中屋」は、創業明治17年の古い歴史を持つお宿である。周りを豊かな自然に囲まれ、かつ源泉3本という豊富で上質な湯が堪能できる温泉として人気がある。それは現在3代目になる女将の田中志(たなか ゆき)さんと総支配人の田中三郎さんを中心に、仲居さんやスタッフが一致団結して宿を盛り上げているからだろう。
現在は順風満帆な「湯守田中屋」だが、相当な苦労を重ねて今に至る。先代の残した負債をそのまま引き継いだ田中夫妻は、経営難に苦しんだ当時、どん底旅館を再生させるという内容のテレビ番組に出演したこともあったという。その時は一時的に盛り返した。そうして心機一転頑張ろうとした矢先、足利銀行の経営破綻である。そのあおりを直接受けてしまった「湯守田中屋」は、結果「産業再生機構」に身を委ね、新しい再建スポンサーに売却される事になった。
それまで夫婦で宿の切り盛りをしてきたオーナーの田中三郎さんと女将の田中志さんは、そこで選択を迫られた。新しい再建スポンサーから、宿を退くか、または総支配人、雇われ女将として宿に残るかを。
元々自分たちのものだった宿で、雇われの身として働かなければならないというのは、心中様々な葛藤があったに違いない。でも、2人は残ったのだ。それは宿への愛情と、リピーターのお客様への責任感、何より宿を知り尽くしている自分たちをおいて、他に再建できる人間はいないという自負からだった。
文字通り生まれ変わった「湯守田中屋」は、だからこそ総支配人、女将、仲居さん、スタッフ全員が強固な絆によって一致団結できるのだろう。そしてその団結力がより良いサービスへの提供に結びつき、結果この宿に惚れ込んだお客さんがリピーターになるのだ。
四季折々の美しさを見せてくれる箒川の渓流美、源泉3本の豊富な湯量、地産地消の素材を活かした料理、そして手抜きのない心のこもったおもてなし。都会での慌しく競争ばかりの生活に疲れたのなら、ぜひ「湯守田中屋」で癒しの一時を過ごしてみては。(J/Hr)