この宿の面白いところは、新規のお客にはチェックイン時に「ごゆっくりお過ごしいただくために」と題した1枚のアンケート用紙のようなものを客に書いてもらう事だ。
それは、夕食の希望の時間、飲むお酒の種類はもちろんのこと、料理を運ぶスピードなども質問にあった。
その他、枕のお好みから、歯ブラシは硬めがいいのか、柔らかめがいいのか、タバコは吸うのか、さらには翌朝の朝食の時間やメニュー(和食か洋食)まで多岐に渡っている。
必要であれば、かぜ薬、胃薬、痛み止め、痒み止め、生理用品、絆創膏も用意しているので要りませんか、爪切り、毛抜き、くし、女性用カミソリなどはどうですか・・・などと。
部屋の香りもライム、ユーカリ、ラベンダーなどからどれがいいかなどの質問もあった。
朝食時に布団はあげないか、朝刊は何がいいかなども聞いてくる。
これはアンケートではなく、もはや病院のカルテのようだが、これには宿側なりの考えのあってのことらしい。
前述のように、「こむらさき」は全5室の規模。お客が求めているのは、至れり尽くせりの接客よりも、お客はプライベートを重視していると、この宿は考えているのだ。
しかしながら、完全なほったらかしでは、お客は満足しない。何かあるとき、何か欲しいときに、できる限りの接客をするための準備が必要なわけだ。
実際に客室に露天風呂が付いていて、大浴場がないわけで、しかも食事も部屋食だから、外に出る機会がない。ほとんどの客が15時のチェックイン後は、外に出ることはないという。
だからこそ、仲居さんが部屋まで行ってお茶をいれたり、女将さんが部屋に挨拶に行ったりなどこの宿はしない。いったん部屋に入ったら、そこはお客の専用プライベートスペース。充分に寛いでもらうための配慮がこの宿にはある。
だからだろうか、「こむらさき」には著名人の宿泊が多いことでも知られている。ふだんマスコミに追いかけられているような人たちにとっては、ここはまさに、“お忍び”するにはもってこいの宿と言えるだろう。
このスタイルを完成させるまで、この宿のオーナー奥居邦保さん(昭和18年生まれ)は相当ご苦労されたようだ。この宿がオープンしたのは平成5年だが、それまではやはりこの「こむらさき」のあるこの土地で、「かつ家旅館」と言う名の旅館を経営していた。実際、邦保さんは宿屋としては3代目になるのだ。
しかし、その旅館は当時18室あったが大衆的な宿であった。建物も相当傷んでいた。
邦保さん本人も宿を継ぐには継いだがどうにも経営するモチベーションがあがらない・・・ということで、一念発起、新天地に引っ越してもう一度旅館を建てようと考えたらしい。
当時の日本はバブル経済の後半に入った頃だったが、なんの因果か、新しい土地ではなく、同じ下田のこの地で宿を新築することになってしまった。
土地面積は300坪だったためにもっと広い場所と考えていたが、その計算が狂ってしまったわけだ。
そこで奥居社長は、「どうせ宿を造るなら自分が泊まりたくなるような宿を造ろう」と考えた。
以前18室の旅館を、たった5室にして個人客中心の宿にしていこう。
どうせならすべての客室を余裕のある間取りにして、露天風呂も付けてしまおう。だったら大浴場も要らないだろう・・・と狭い土地ならではの発想でこの宿のコンセプトを創り上げたのだ。
それは、平成5年にオープンしてまもなく、奥居社長のコンセプトに間違いがなかったことが証明されることになった。
当時は小規模ながら、全室に露天風呂付きというのは、非常に珍しかった。雑誌などの取材を受けてから、首都圏の個人客がひっきりなしに予約をしてくるようになった。
それから現在に至るまで、リピーターの多い人気宿として知れ渡るようになるのである。
この宿は、気のきく管理人のいる別荘と考えれば、利用範囲もぐっと広がる。
思い立ったら、宿に予約をして、身軽な荷物だけで家を出て「こむらさき」で滞在する。
好きな時間に温泉に入り、夜は南伊豆ならではの新鮮な海の幸と好きな酒をいただき、ぐっすりと寝る。
こんな単純な過ごし方が一番いい。
お客のプライベートを邪魔しない・・・このシンプルな宿のコンセプトは、この宿の大いなる魅力のひとつ。
だからこそ、一方で記念日旅行のニーズも多い。実際、取材当日も新婚旅行の客もいた。
とにかく、自分の時間を大事にし、その時間を愛しく感じるなら、自分好みの過ごし方のできるこの宿はまさにうってつけと言えるだろう。
「野の花亭 こむらさき」に通常宿泊するには、お一人様3万円台後半の料金が発生する。
伊豆で露天風呂付き客室の宿を探そうとすれば、高い部類に入るだろう。
大浴場や露天風呂のほか、大規模なパブリックの施設がない宿にも関わらず、この料金は割高に感じる方もいるだろう。
しかし、この宿には多くの常連客によって支えられている。
それはなぜか?
よく考えてみると、それは京都の一見さんお断りの老舗料亭に共通するものがあるようだ。
この料金であれば、無理して来る客はほとんどいないし、宿の成り立ち、キャラクターを理解した上で、訪れている”大人”たちのための空間となっているような気がする。
そして、前述のように”カルテ”によって、お客の要望に的確に応えられるように、いつでもスタンバイしているような接客の基本を実践している。
これは、老舗高級旅館のような、痒いところに手が届くといった、”おもてなし”が充分に用意されているのだ。
こういった、”プライバシー”を守ってくれながら、ふと感じる極上の”おもてなし”が同居する宿は、なかなか見つけることはできない。
業務の効率化や、デザインを多様したラブ旅館化などには、まったくと言っていいほど興味がなく、愚直なまでに「The日本旅館」を実行しているのが「こむらさき」なのだ。
この小さな規模で、このサービスを受ければ、この宿泊料金は妥当、あるいは安いと感じる方は少なくない。
だからこそ、この心地いい空間を体感してしまった”大人”たちは、繰り返し訪れるのだ。
宿が客を選び、客が宿を選ぶ・・・・・そんな宿が「野の花亭 こむらさき」なのだ。(J)