武田信玄の家臣で、武田四名臣の一人に数えられる山県昌景率いる軍勢が、飛騨攻めの最中に峠超えと硫黄岳の毒ガスにより疲弊していたところを、白猿によって教えられた温泉につかって疲労を回復した、という開湯伝説が残っている平湯温泉。平湯峠、安房峠、乗鞍岳、焼岳などに周囲を囲まれた秘湯として知られていたが、平成9年の安房トンネル開通により、松本方面や首都圏への交通アクセスが大幅に向上。また、上高地及び乗鞍の2観光地へのマイカー規制が始まったことで、平湯温泉の駐車場に自動車を駐車し、ここから頻発されるシャトルバスに乗るという観光ルートが新たに誕生した。こうした大きな交通事情の変化で、平湯温泉は秘湯から「観光交通の要衝に位置する温泉地」へと変貌を遂げつつある。
「ひらゆの森」は、奥飛騨温泉郷の交通アクセスの要所である平湯バスターミナルの隣に位置する。この場所には、昭和30年代より三井金属神岡鉱山の保養施設があった。約5u(1万5000坪)もの土地や森を所有していたこの施設は、三井金属の関係者が多く集まる人気施設だったそうだ。また、備えられた貴賓室には、池田隼人元首相夫人や皇族も宿泊されたという。
ところが平成9年、この施設が売りに出された。当時の三井金属神岡鉱山社長が「この土地と施設は是非村に戻したい」という意向が強かったため、平湯温泉旅館組合や平湯の企業で共同出資し、施設と土地を全て購入する事となった。
保養施設をそのまま再利用した本館21室に、新館8室と原生林に浮かぶ男女別露天風呂を合わせて増築し、同年にオープン。平湯バスターミナルの隣という好立地に合わせ、「以前平湯に存在した、誰もが気軽に入れる共同浴場を再現しよう」とコンセプトを打ち立てていたので、日帰り入浴も積極的に受け入れていた。ちょうどこの年は、安房トンネルが開通し、首都圏を筆頭に東側からの観光客の数が増大しはじめた年でもあった。
地の利を活かして瞬く間に人気温泉施設となった「ひらゆの森」。その後は、宿泊客や日帰り利用客の増大に合わせて施設を充実させていく。平成15年7月に、1階は休憩所、2階に7つの客室を備えた「合掌棟」を増築。平成16年12月には、休憩所や売店、喫茶コーナーを備えた正面玄関部と、日帰り客が主に利用するサウナ付き男女別大浴場を増築した。飛騨の農家の蔵を移築して造られた、素泊まり専用露天風呂付き離れ客室「板蔵の郷」がオープンしたのは、まだ最近の平成19年8月のこと。
「ひらゆの森」温泉は、含イオウ炭酸水素温泉。広大な敷地の中にある2つの源泉からくみ上げて使用している。湧出量は750リットル/分にもなる。源泉の温度が68℃と高温のため、加水により温度調節はされているものの、これより紹介させていただくすべてのお風呂が源泉掛け流しとなっている。
男女別の大浴場は館内に2ヶ所。玄関から近い位置にあるそれぞれにサウナが付いた男女別大浴場は、主に日帰り客が利用することが念頭にあり、利用時間は10:00〜21:00だ。
もう一つの男女別大浴場は宿泊棟奥にある。三井金属神岡鉱山の保養施設時代から使用していたこの大浴場は宿泊客しか利用することができない。利用時間は15:00〜翌朝8:00。
開業に合わせて目玉として造られた露天風呂へは、両方の大浴場から行くことができる。ここには、意匠に富んだ露天風呂が、男性用には7つ、女性用には9つあり、湯巡り気分で楽しむことができる。開業当初は、原生林の中に突如として現れた温泉をモチーフとしていたが、冬場暖かい温泉を吸い上げた木は、内部を凍り付かせて死んでしまうため、残念ながら今では立ち枯れた巨木が至る所に残された露天風呂になっている。とはいえ、春のきらめく新緑と鳥のさえずり、夏の北アルプスのから流れる爽やかな風、秋の燃えるような紅葉、冬の雪景色…雨の日や星降る夜もそれぞれに趣深く過ごすことができるので、ゆっくりと湯浴みを楽しみたい。利用できる時間は15:00〜翌朝8:00だ。
客室は、「本館」、「新館」、「合掌棟」の3つの棟と、素泊まり専用の露天風呂付き離れ「板蔵の郷」、合計4つの宿泊棟から形成されている。どの客室からも四季折々に表情を変え、魅力あふれる雄大な自然を眺めることができる。
「本館」には18の客室がある。全ての部屋がシンプルな造りの和室と洋室で、広さも8帖〜14帖とこじんまりしている。貸切風呂や大浴場に近く、価格も一番リーズナブルなので、最初に予約が埋まっていくそうだ。なお、本館の全客室にはトイレが付いておらず、また洗面所ではお湯が出ないことに注意していただきたい。
「新館」の客室数は7室。「新館」の部屋もシンプルな造りの和室と畳敷きにベッドが配された和洋室で、広さは8帖〜10帖となっている。隣接「本館」との違いは、トイレが付いていて、洗面所からお湯が出る事だ。
「合掌棟」には2階には客室が7室。合掌造りの建造物なので、通路や客室からは重厚感溢れる梁を眺めることができる。客室タイプは3種類に分けられており、10帖の和室の301号室、シングルベッドが配された一人用の洋間である305号室、残りの客室はツインベッドが配された洋間だ。全室トイレ付き。
素泊まり専用の露天風呂付き離れ「板蔵の郷」は平成19年8月にオープンしたばかり。飛騨地方の農家の蔵を移築して造られた5棟には、蔵を寄贈してくれた方の先祖から名前を拝借し、「善助」、「松造」、「猪之助」、「甚三郎」、「音之助」と命名されている。素泊まり専用なので、IHクッキングヒーターが全ての棟に備えられている。洗い場はないものの、信楽焼の湯舟の温泉が好きなだけ楽しめるのは嬉しい。ロフトには5人分の寝具が備えられており、家族旅行や仲間と気兼ねなく過ごすのに最適だといえよう。
なお、和室の布団は自分で敷かなければならないことも加えて記しておく。
ここで夕食のメニュー(2008年2月取材)を紹介する。食事は食事処「どんぐり」でいただくことになる。
暖かいもの以外が事前にセッティングされた夕食。飛騨の郷土料理や、地元の素材を用いた料理が並び、どれから手をつければよいか迷ってしまう。
前菜の3点盛りは、「小さいじゃがいも(ほろいも)」と、冬が長いこの地方で昔から保存食として重宝されてきた「凍豆腐」、古くなった漬物を煮て調理しなおした「にたくもし」という郷土料理に、もずく酢とみょうがの漬物が並んだ。
秋に採り、保存しておいた山菜を用いた山菜蕎麦。春から夏にかけては、スタッフ自らが山に入り、採集した旬の山菜を用いて作るそうだ。
まぐろの山掛け。醤油を掛けていただけば、より一層ご飯が進む。
季節によって使用する食材が変化する天ぷら。取材時は、まいたけ、かぼちゃ、おくらで包んだ海老しんじょう。抹茶塩であっさりといただいた。雪解けの時期になれば、地元産の旬の食材を用いた天ぷらを味わうことができる。
沢に養殖場を作り、あくまで天然に近い形で育成されたニジ鱒の塩焼き。塩加減が絶妙で非常においしかった。串刺しになっているので、そのまま豪快にかぶりつきたい。
リーズナブルな宿泊料金にもかかわらず、高級食材飛騨牛を用いたロース肉の鉄板焼も登場。人参、じゃがいも、しめじ、ししとうと一緒に目の前の鉄板で焼き上げていく。脂が非常に乗っていて、口の中で溶けていくような食感がたまらなかった。一緒に付いた塩ダレでいただく。
これらのおかずをいただきながら、仕入れによって変わるものの、「ひとめぼれ」や「コシヒカリ」のご飯と、しめじ、三つ葉、麩が具材の吸い物も同じタイミングでいただく。
食後のデザートはオレンジ。みずみずしさとほのかな酸味が、胃の中を爽快にしてくれた。
翌朝の朝食には、朴葉味噌、大豆の煮物、温泉卵、ホウレン草のおひたし、焼鱒、漬物が並んだ。どこか懐かしさを覚える和定食で嬉しくなった。中でも朴葉味噌の濃厚な味は、箸が進むスピードを更に加速させ、非常にごはんが進む朝食だった。
チェックアウト前に忘れずに立ち寄りたいのが、フロント正面にある売店。「黒羽二重餅(12個入り)」や「平湯温泉まんじゅう(12個入り)」、「湯葉巻豆腐」や「なめここんぶ」、「山ごぼうの漬物」などの食料品のお土産に加え、飛騨で有名な「さるぼぼグッズ」の数々や民芸品、帰り道のお供になるようなお菓子まで取り揃えられている。種類が豊富なので必ず思い出に残る一品を探し出すことができるだろう。
冬場は雪に閉ざされ身動きが取りにくくなるため、スキーやスノーボードをしない人にとっては、温泉に浸かるか風景を眺める程度しか楽しみを見出せないだろうが、原生林が茂る広大な敷地内には遊歩道があり、春の新緑のシーズンや涼を求める夏、秋の紅葉のシーズンは、清々しい空気と豊かな自然を満喫することができる。また、程近い温泉街にちょっと足を伸ばしてみるのも良いかもしれない。
平成9年に開業して以来、この「ひらゆの森」の陣頭指揮を執っているのは、地元出身の取締役支配人、山田幸一氏(39)だ。
宿泊棟は、昭和30年代に建てられた保養所で、設備的にも満足のいくものではなかったため、開業当初はお客さんが来ないのではないかと不安だったそうだ。しかし、その予想は裏切られることとなる。日帰り入浴客数や宿泊客数の増加とともに、設備にてこ入れをし、施設を新たに増やしながら走ってきた10年間。今や平湯温泉でもトップクラスの集客力を誇る、旅館兼日帰り入浴施設へと成長した。だが、トップクラスにまで上り詰めたとはいえ、10年前の「ひらゆの森」の姿と設備的には今も大差が無い。確かに温泉は素晴らしいが、今でも「本館」の客室にはトイレが付いておらず、洗面所からはお湯も出ない。また、布団の上げ下げをしてくれる仲居さんの姿も無く、絶品の料理があるわけでもない。しかしそれでも人は集まってくるのだ。
「大正時代〜昭和初期に平湯温泉にあった共同浴場の復活を目指していました。だから、旅館で敬遠されがちな個人客や飛び込み客も敬遠せず、10年間夢中で走ってきました」という話をうかがった時、なるほど、この宿の最大の魅力は気兼ねなく普段着で敷居を跨げる気楽さなのだと気づいた。
素晴らしい温泉とリーズナブルな料金、利便性の良さだけに胡坐をかいているだけで人が集まってくるわけではない。設備が足りなくても、どうすればお客さんが満足してくれるのかを真剣に考え、来てくれたお客様への感謝の心を忘れない。その理念がスタッフにも浸透し、当たり前のことを当たり前にできることが「ひらゆの森」の最大の魅力だと感じた。(J/NS)