いまや九州のみならず、全国区の知名度を誇る黒川温泉。
近年では海外にもその名を轟かせ、多くの外国人旅行者もその風情を楽しみに訪れている。
この日本の田舎を具現化したような佇まいの、小さな温泉街の起源には、こんな伝説がある。
その昔、大分市の中津留(なかつる)で、病気の両親のために息子が畑からウリを盗んだ。
地主の怒りを買い、孝行息子は首をはねられたが、落ちていたのは身代わり地蔵の首であったという。
その首を細川藩の修行僧が熊本に持ち帰ろうとこの地を通ったところ、「ここに安置してくだされ」と地蔵の首が喋った。
地元の人々が首を大切に祀ると、後にこの場所から温泉が湧き出たそうだ。
そこが現在の「地蔵堂」であり、湧き出た温泉は道を隔てた向かい側、田の原川沿いにある公衆浴場「地蔵湯」で、今も地元の方に親しまれている。
この「地蔵湯」と軒を並べるようにして建つのが、黒川でも随一の人気を誇る「ふもと旅館」。
多くの観光客が街歩きを楽しむこの温泉街、誰しもがこのお宿の横を通ることだろう。
この街歩きを促進し、また黒川温泉が知名度を上げる一因ともなったのが、有名な「入湯手形」である。
1,200円で購入すると、好きな旅館3箇所の露天風呂を“はしご”することができ、宿泊せずとも気軽に温泉巡りができると評判になったものだ。
多くの観光客がこの手形を首から提げ、宿から宿へと闊歩する姿は、ここの風物詩ともなっている。
地蔵堂の境内には、多くの入湯手形が結び付けられている。
観光客が利用した手形に「恋愛成就」「交通安全」「学業成就」などの祈りをこめて結び付けていくそうだ。
ここは今も昔も、黒川温泉の中心なのだ。

温泉街の中心を流れる、田の原川に沿って走る川端通りから、石段を数段下がると「ふもと旅館」の玄関。
趣きのある本館と、川を隔て太鼓橋で結ばれた三角屋根の湯小屋、道を隔てた向かい側の斜面に広がる別館の「B・R(ビー・アール)」と、広範な敷地に建つ。
まるで田舎の家といった佇まいは館内も同様。深い色合いの板敷きの床が連なる。
客室数は本館、別館併せて16と小規模ながら、風呂は大小併せて14ある。
つまり、館内のみで温泉巡りができるのである。
人気を呼んでいるのは、ロケーションの良さもさることながら、様々な楽しみ方の出来るこれらお風呂にも要因があるようだ。
別館側の8つの風呂は、宿泊者のみ利用が可能。
6つが貸切風呂で、2つは男女別の共同風呂となっている。
こちらは「野外風呂」と呼ばれ、野趣溢れる切石風呂で雰囲気がいい。
大人5名以上が一緒に入れる大きさがある。
湯舟奥に繁茂する竹林が爽やかな雰囲気。しかし、夜はまた趣きが異なり、古くからある湯治場のような印象を与える。
「ふもと旅館」は黒川温泉の中でも珍しい2種類の源泉を持つお宿。
湯量も豊富で、2つ合わせると、およそ毎分300リットルとなる。
全16室、収容人数50名の規模であれば、通常、大浴場だけで考えれば、毎分50リットルあれば、かけ流し(常に新しい温泉を湯舟に注ぎ、溢れさせて温泉を新鮮に保つ方式)ができると言われているが、この宿は男女別や混浴の湯舟の数だけで6つ、貸切風呂で7つ。つまり、客室数16に対して13の湯舟があるという、規格外の湯宿と呼べるかもしれない。
「ふもと旅館」は、黒川温泉の中心にあり、全国的に話題となった日帰り入浴ができる「入湯手形」の利用者も多いお宿。
日帰り客と宿泊客を分けて考えて、このお風呂の多さにつながったかもしれないが、社長夫妻のサービス精神には恐れ入る。
その日帰り客(入湯手形の利用客)が利用するのは、本館から太鼓橋でつながっている「湯小屋」と呼ばれるエリアにある。
川に沿ってある男湯の露天風呂「もみじの湯」(21:00〜22:00は女性用)と、急な階段を上った奥にある女性専用の露天風呂「うえんの湯」だ。
どちらも大人10名は入れる大きさで、緑に包まれるような、穏やかな風情が人気がある。
ひっそりとした、喧騒から離れた静けさが漂い、旅情緒を最も強く感じられる場所かもしれない。
その他に、宿泊者専用となるが、湯小屋内の男女別大浴場も天井も高く開放感がある。内湯ながら岩を配した湯舟で、窓さえなければ露天風呂の風情だ。
窓の外からは田の原川の流れる音が響き渡る。
これらの湯舟に注がれている源泉は「単純硫黄泉」。
pH3.48の弱酸性で、硫化水素型と呼ばれる硫黄泉となっている。
硫化水素型の硫黄泉で代表的なのは、蔵王(山形)、草津(群馬)、雲仙(長崎)などがあるが、これらはゆで卵のような匂い(硫化水素臭)を発する、濃厚で白濁した温泉。
酸性度も強く、肌が弱い人は多少ピリリと感じる。
しかし、「ふもと旅館」の硫黄泉は、人肌のpHに近い弱酸性で、刺激も少ないから、赤ちゃんも安心して入浴できる優しい泉質となっている。
もともと硫黄泉は、「美肌の湯」4大条件のひとつに数えられ、ニキビや吹き出物が出やすい人や、肌の余分な皮脂を落としてくれるので、オイリースキンタイプの人にいいとされている。

そして、別館BRに備わる数多くのお風呂(男女別と貸切風呂)に注がれているのが、「弱アルカリ性単純温泉」(pH7.45)。
「弱アルカリ性」というのは、前述の「美肌の湯」4大条件のひとつでもある。
アルカリ性の湯は、いわゆる石けんと同じ役割を果たす。
つまり、肌表面の古い角質をふやけさして落としやすくする。
だから、入浴後は、肌がツルツルスベスベになる感触を得られるのだ。
そして「単純温泉」とは、含有成分が一定量に達していないものを指すが、これはつまり成分がうすく、肌に優しい泉質であるという意味でもある。
刺激が少ない分、赤ちゃんや年配の方向きと言え、さらにいえば湯あたりもしにくい泉質と言える。
いかがだろうか。
「本館・湯小屋」と「別館BR」の異なる泉質を交互に体感し、それぞれ個性的な湯舟に浸かる・・・まさに、「ふもと旅館」の最大の魅力がこれなのである。
予約もせず、空いているお風呂に入る方式も、シンプルでいい。
しかも、これらの温泉が、地下から湧出する、そのままの状態で湯舟に注がれているのが温泉ファンとしては嬉しい限りだ。
ほとんどの温泉宿が、循環ろ過装置を導入するなか、「ふもと旅館」の湯守精神は尊敬に値する。
循環ろ過装置を導入するという事は、湯温の調節も機械がしてくれるという事。
作業効率の事を考えれば、相当楽なはずだ。
しかし、「ふもと旅館」は、源泉かけ流し方式に固執するため、湯温の調節は、湯舟に注ぐ温泉の量で調節している。
その時の外気温も、もちろん湯温に関係する。
そんな微妙で、繊細な作業も、源泉かけ流しの温泉は、絶対に必要なのである。
この宿の施設についてもう少し解説しておこう。
本館も別館も地形に沿って建つため、当然段差が多い。
エレベーターもなく車椅子での移動は不可能だが、変化にとんだ情景は滞在のいい思い出となることだろう。
迷路のように入り組んだ通路を行き来して、探検気分を味わうこともでき、つい童心に帰ってしまうかもしれない。