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005 足利 成氏
文武両道に秀でた関東戦国時代初期の名宰相/江戸城の築城者 006
太田 道灌
Ohta Doukan
身分 扇谷上杉家の家宰/武蔵守護代
在任:康正2年(1456)~文明18年(1486)
改名 鶴千代(幼名)→ 資長 → 道灌(法名) 別名 五山無双の学者(幼少の頃)/才知天下無双
誕生
永享4年(1432)
死没
文明18年7月26日
(1486年8月25日)
享年 55歳
氏族
太田氏
官位
正五位下備中守
父母
父:太田資清(扇谷上杉家の家宰)
母:長尾景仲(山内上杉家の家宰)の娘

資康、養子(資忠、資家、資雄)
主君
上杉持朝(復帰)→政真→定正(いずれも扇谷上杉家当主)
性格
幼少の頃より、頭脳明晰で、将来を嘱望されていた。しかし、その才能のゆえ、それが仇にならぬかと、父は心配していたという。
家督を譲られると、その才は花開く。
江戸城の築城など、先見の明あった。
道灌は、和歌・連歌を好む当代一流の文化人でもあった。
それでいて、政治・軍事その他の面でも傑出していた存在であった。
そんな道灌は、自らの力量を自負する面もあったという。傲慢さと捉えられるところもあったというわけだ。それが主君である扇谷上杉定正にとって不安視する要因にもなった。

プロフィール
永享4年(1432年)、鎌倉公方を補佐する関東管領上杉氏の一族である扇谷上杉家の家宰を務めた太田資清の子として生まれた。幼名は鶴千代。
鶴千代は、幼少の頃より鎌倉五山(一説によれば建長寺)で学問に励み、「五山無双の学者」となった。
足利学校(栃木県足利市)でも学んだ。
文安3年(1446年)に元服し、資長と称した(初名は持資とする説もある)。
ちなみに、道灌とは、剃髪した文明10年(1478)頃からの号である。
関東管領・上杉氏は、山内上杉家・犬懸上杉家・宅間上杉家・扇谷上杉家に分かれ、このうち山内家と犬懸家が力を持っていたが、上杉禅秀の乱で犬懸家が没落した後は山内家が関東管領職を独占し、太田氏の主君・扇谷家は山内家を支える分家的な存在であった。
父・資清が主君・扇谷上杉持朝を補佐していた時代に、鎌倉公方・足利持氏と関東管領・山内上杉憲実の対立から「永享の乱」へと発展し、持氏は室町幕府軍に滅ぼされ鎌倉公方は断絶。
後に幕府によって持氏の子・足利成氏が鎌倉公方に復帰し、憲実の長男・山内上杉憲忠が関東管領に任じられると、憲忠の義父である扇谷上杉持朝の要望により太田資清が、山内上杉家の家宰・長尾景仲と共に、関東管領である山内上杉憲忠を補佐した。
ちなみに、長尾景仲は、太田資清の義父で、道灌にとっては母方の祖父にあたる。
宝徳2年(1450)、足利成氏からの攻撃を察した、山内上杉家(関東管領家)の家宰・長尾景仲(憲忠の舅)は、扇谷上杉家当主の上杉持朝と共謀して成氏を攻撃したが、逆に反撃を受けてしまう(江の島合戦)。
関東管領・上杉憲忠(18)は、直接この戦には関わっていなかったが、家臣の責任を負う形で相模七沢に蟄居させられた。
それから5年後の享徳3年12月(1455年1月)、成氏(18)は、遂に関東管領・上杉憲忠(23)を自宅に招いて暗殺。さらには、山内上杉邸も襲撃し、家宰の長尾実景も殺害した。さらに当時の扇谷家当主・上杉顕房(持朝の子)も討たれてしまう。
その享徳4年の3月(1455年)、幕府は、成氏討伐を決め、駿河の守護・今川範忠に鎌倉を攻めさせた。そして、成氏は、鎌倉府御料所のひとつである、下総国古河(こが)、現在の茨城県古河市に本拠を移した。その後、古河公方と呼ばれた。
戦いは、関東各所で続いていった。
成氏は、上杉氏に反感を抱く関東諸将の支持を集めたため、関東地方はほぼ利根川を境界線として、古河公方陣営の東側と関東管領陣営の西側に分断された(享徳の乱)。
康正2年(1456)、25歳の太田資長(道灌)は、父・道真(法名)から家督を譲られ、扇谷上杉家の家宰となり、復帰した上杉持朝から政真(顕房の子)・定正(顕房の弟)の扇谷家3代にわたって補佐して、結果的に28年にも及ぶ享徳の乱を戦う事になった。
資長(道灌)は、古河公方・足利成氏に備えるべく、江戸城の築城に取り掛かり、康正3年(1457年)に完成させ、さらに顕房死後に扇谷家当主に復帰した持朝の命で、康正2年(1456)から長禄元年(1457)にかけて太田道真・道灌父子は武蔵国入間郡に河越城(埼玉県川越市)を築いた。
文明5年(1473)に上杉政真が、足利成氏の軍に、五十子(いらこ/いかつこ)で敗れ亡くなったあたりから、太田資長(道灌)の活躍が目立ってくる。
特に、文明8年(1476)に起きた長尾景春の乱(~1480)の鎮圧に奔走した。元々、長尾景春は、山内上杉顕定の家臣にも関わらずだ。
関東各地を転戦し、三十余度も戦い、文明12年(1480)に、日野城(埼玉県秩父市)で長尾景春を破り、乱を収束させた。
文明14年11月27日(1483年1月6日)、成氏と両上杉家との間で「都鄙合体(とひがったい)」と呼ばれる和議が成立。成氏は幕府から赦免された。
これによって成氏が引き続き関東を統治する一方で、伊豆の支配権については政知に譲ることになった。
これにより、30年におよんだ関東の争乱は終わった。だが、この和睦は山内上杉家と越後上杉家が主導したものであり、扇谷上杉家の当主定正は不満であった。扇谷上杉家の家宰・太田道灌も充分な恩賞がないと感じた。
また、この戦いの第一の功労者、道灌の勇名は広まり、主筋である扇谷上杉定正は不安を感じ始める。
そのような状況の中、扇谷上杉家が道灌の存在により、勢力が強大になる事を恐れた山内上杉顕定は、道灌をこのままにしておけば、必ず寝首をかかれる。今、道灌を殺せば手を結ぼうと定正に申し入れ、その策に定正は乗っていまい、定正は館で道灌を自宅に招き入れ殺してしまう。この時道灌は55歳。「当方滅亡!」と一言を残して果てたと伝えられている。
自分がいなくなれば、扇谷上杉家の未来はないとの予言である。
その予言通り、道灌暗殺により、道灌の子・資康はもちろん、扇谷上杉家に付いていた国人や地侍の多くが山内家へ走った。
扇谷上杉定正はたちまち苦境に陥ることになった。
翌長享元年(1487)山内顕定と扇谷定正は決裂し、両上杉家は長享の乱と呼ばれる歴年にわたる抗争を繰り広げる。
そのタイミングを狙って、伊勢宗瑞(北条早雲)が関東に進出して、後北条氏が台頭してくる。そして、早雲の孫の氏康によって扇谷上杉家は滅ぼされ、山内上杉家も関東を追われ、越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼ることになるのである。

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