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003 上杉 憲実 005 長尾 景仲
関東管領・山内上杉氏5代に使えた忠義の臣/太田道灌の祖父 004
長尾 景仲
Nagao Kagenaka
身分 山内上杉家の家宰/上野・武蔵守護代
在任:嘉吉3年(1443)~宝徳2年(1450)
享徳3年(1455)~寛正4年(1463)
改名 孫四郎→景重→景仲 別名 東国不双の案者
誕生
元中5年/嘉慶2年(1388)
死没
寛正4年(1463)
享年 76歳
氏族
長尾氏
父母
父:長尾房景(鎌倉長尾氏当主)
母:長尾清景の娘(白井長尾氏)
養父:長尾景守(白井長尾氏当主)
兄弟
景仲 実景

小山義政の娘
長尾景守の娘

景信 忠景 景明
娘(太田道灌の正室)
主君
上杉憲定→憲基→憲実
→憲定→房顕(いずれも関東管領)
性格
主である関東管領・山内上杉家に長年に渡って仕え、忠義を全うした武将。
鎌倉公方、古河公方との戦いの生涯でもあった。
当時としては高齢の身でありながら、第一線で戦う姿を見せ、家来集にも信頼おける人物だったらしい。
白井長尾家の本拠地である上野・白井城(しろいじょう/群馬県渋川市白井)の築城も手掛けた。

プロフィール
鎌倉長尾氏の父と、白井(しろい)長尾氏出身の母の間に鎌倉で生まれる。
長尾氏は、桓武平氏の流れを汲む。相模国の鎌倉郡長尾郷(現・横浜市戸塚区)が発祥地。
関東長尾氏と越後長尾氏に大別されるが、白井長尾氏は上野国長尾を本拠とした。
叔父にあたる白井長尾家の当主・景守の養子となり、5年後の応永8年(1401年)、14歳の時に、養父の死によって山内上杉氏の重臣である白井長尾家を継ぐ。
当時の家宰であった惣社長尾氏の長尾忠政と共に上杉憲定を補佐し、以後5代の山内上杉家の当主に仕えた。
応永23年(1416年)、景仲29歳の頃、関東管領を務めたこともあった上杉禅秀が、鎌倉公方・足利持氏を討とうとした時(上杉禅秀の乱)は、持氏の鎌倉脱出を助け、さらに由比ヶ浜で上杉禅秀の軍を破って持氏と、主君である関東管領・上杉憲基を鎌倉に復帰させた。
永享10年(1438年)、持氏が、次の関東管領・上杉憲実を討伐しようとして永享の乱を起こすと、家宰・長尾忠政は、憲実を上野平井城に迎え入れた。
この戦いで景仲(51)も、忠政の副将として活躍し、幕府軍とともに鎌倉公方・持氏を破った。さらに、結城合戦でも功績を挙げた。
嘉吉3年(1443)頃に、忠政が亡くなると、かつての主君・持氏を死に至らしめた積年の思いもあり、子供達を連れて出奔していた上杉憲実に代わって、当主の仕事をこなしていた憲実の弟の越後守護・上杉清方(上条上杉家)の要請で、山内上杉家の家宰に就任した。
しかし、文安3年(1446年)に清方は急死し、憲実は相変わらずの隠遁生活のままだったために、先の永享の乱で廃絶した鎌倉公方に続いて、関東管領も空位となってしまい関東の政治は滞ってしまった。
そこで景仲は、扇谷上杉家の家宰で婿の太田資清(道真)と相談して、憲実が反対する中、出家していた憲実の長男竜忠(上杉憲忠)を連れ出して還俗させ、関東管領を継承させた。
この時、憲忠14歳、景仲59歳。
それから3年後、宝徳元年(1449年)、再興なった鎌倉公方に、元服したばかりの足利成氏が16歳で就任した。
その後、成氏は、父・持氏の旧臣や子孫らを重用し、関東管領家を遠ざけたり、管領側の所領を奪ったりしたため、翌宝徳2年(1450)、家宰・長尾景仲は、扇谷上杉家の当主・上杉持朝と共謀して成氏を攻め滅ぼそうとしたが失敗し、逆に反撃を受けてしまう(江の島合戦)。
関東管領・上杉憲忠は直接この事件には関与していなかったが、家臣の責任を負う形で相模七沢に蟄居を余儀なくされた。
いったんここでは成氏も憲忠を赦し、政務に復帰させた。
しかし、景仲は、ここで失脚し家宰職から降板。
享徳3年(1455)には、鎌倉公方側と関東管領側の所領の奪い合いが頻発し、成氏(22)は自らの御所にいた関東管領・上杉憲忠(23)を暗殺してしまう。
さらに、山内上杉邸を襲撃し、家宰・長尾実景も殺害した。
悲報を聞いた景仲は、扇谷上杉家の持朝らと協議し、京都にいる憲忠の弟・房顕を次の関東管領に迎え入れる事を決めた。
房顕は、従弟の越後守護・上杉房定(房朝の従弟で養子)と合流して上野平井城に入った。
そして、景仲は長尾実景及び後継者である景住の殺害によって空席となった家宰の地位に68歳で再びつくことになった。
康正元年(1456年)に入ると、成氏は上杉氏の本国である上野を攻略するために鎌倉を出発して武蔵府中に向かった。
この報告を聞いた景仲(69)は直ちに上野・武蔵の兵を率いて府中に向けて出撃し、上杉一族もこれに合流した。
だが分倍河原の戦いにて惨敗し、扇谷上杉家の当主・上杉顕房、犬懸上杉家の上杉憲秋ら、名だたる武将を多く失ったが、景仲はかろうじて生き残る。
だが、成氏も、幕府の命により上杉氏救援に駆けつけた今川範忠によって、鎌倉を追われて、下総古河に入った。
成氏は鎌倉に戻るのを断念して、以後、古河公方(こがくぼう)と呼ばれた。
結果、関東は利根川を境界に東側を古河公方(足利成氏)陣営が、西側を関東管領(上杉氏)陣営が支配する事となり、関東地方は事実上東西に分断される事になる。
上杉氏の領国だった上総と安房は、成氏派の武田信長、里見義実に攻められ、占領されてしまった。
しかし、成氏は、憲忠を殺害した事で、父・持氏の敵討ちをした格好になった。
これが、古河公方と上杉氏一族との争いで、1483年まで続く。

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