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002 足利 持氏 004 長尾 景仲
鎌倉公方と幕府との板挟みに苦悩した関東管領/足利学校の再興に貢献 003
上杉 憲実
Uesugi Norizane
身分 関東管領、上野・武蔵・伊豆の守護大名
在任:応永26年(1419)~永享11年(1439)
改名 孔雀丸(幼名)→四郎→憲実 別名 持氏の教育には失敗した日本初の校長先生
誕生
応永17年(1410)?
死没
文正元年(1466)
享年 57歳
氏族
越後上杉家→山内上杉家
父母
父:上杉房方(越後守護)
養父:上杉憲基(関東管領~山内上杉家)
兄弟
朝方 頼方 憲実 重方
清方

一色氏の娘

憲忠 房顕 周清 法興
周泰
猶子:佐竹実定
主君
足利持氏(鎌倉公方)→
足利義教(将軍)
性格
越後にいた子供の頃は、芸能に長け、大器晩成の人と評価されていた。
10歳の時に、関東管領という重責を背負ったわけだが、補佐するべき主君・持氏が年上で、しかも政務を充分にこなしていたため、成人してからも、軽く見られていた節がある。
京都の幕府と平和的に付き合おうとする穏健派だったため、独立志向の強かった鎌倉公方・持氏の板挟みに悩まされた人生だった。
持氏が自刃させられた事の責任は自分にあると思い、自らも後を追う事もした忠義の心もあった。

プロフィール
越後守護・上杉房方の第三子。後に、山内上杉憲基の養嗣子となる。
27歳の若さで関東管領・上杉憲基が亡くなり、応永26年(1419)に、10歳で関東管領、及び上野、武蔵、伊豆の守護となった。
この時、主人である鎌倉公方は22歳の足利持氏。
応永30年(1423)には、幕府側に立つ小栗満重の乱を起こした常陸の小栗氏征伐に出陣し、小栗城を攻め落としている。
この頃から、持氏の京都の幕府に対する反抗行動が顕著になってきた。
応永35年(1428)正月、第4代将軍の義持が死去した時、4月に年号が正長に改元され、籤引きで、出家していた足利義教(35)が第6代将軍に就いた。
持氏(31)は自らが将軍後継の候補に選ばれなかった事に不満を持ち、兵を率いて上洛しようとするが、憲実(19)はこれを諫止した。
持氏は、新将軍就任の賀使も送らず、さらに9月に永享と改元されても、新年号を用いなかった。
永享10年(1438)には、持氏(41)の子の健王丸の元服の際、憲実(29)が将軍の一字拝領を願い出るよう勧めたが、これも拒否した。
常に、幕府側と協調路線を維持してきた憲実だったが、持氏が憲実を暗殺するのではないかとの噂も出始め、憲実は身の危険を感じ、領国である上野に帰ってしまった。
永享11年(1439)、持氏は、すぐに憲実討伐に動き、一色・小笠原軍を派遣したが、武蔵分倍河原で、憲実に敗れる。
これに乗じて、幕府が介入し、憲実と結託して鎌倉府討伐を実行。
持氏は大敗を喫し、出家して鎌倉の永安寺に蟄居した。
憲実は、将軍義教に、持氏の助命嘆願をしたが、聞き入られず、自刃させられた(永享の乱)。
ここに、鎌倉府が滅亡した。
憲実は剃髪し、弟の上杉清方に託して、出家した。
遺児である、春王丸(10)と安王丸(8)は、下総の結城氏朝に保護され、幕府に反撃を試みた。
憲実もやむなく出陣したが、あえなく敗戦(結城合戦)。
その後、憲実は再び隠遁生活を送った。
将軍義教は、春王丸・安王丸を京への護送途中に殺させ、もうひとりの遺児、永寿王丸(2)は、母方の信濃の豪族・大井持光に逃げた。
後に復活した鎌倉公方・足利成氏となる。
そしてこの頃、憲実の強い反対にも関わらず、長男の憲忠が、関東管領に就任する。
憲実の恐れたいた通り、憲実を親の仇だと考えていた成氏は、享徳3年(1454)に憲忠を暗殺してしまう(享徳の乱)。
この後、憲実は諸国遍歴の旅に出た。
享徳元年(1452)には大内氏を頼って留まり、文正元年(1466)、長門大寧寺で死去した。享年57。
永享11年(1439)、日本最古の総合大学「足利学校」を再興した人物としても知られている。
その時は、あの永享の乱で、主君・足利持氏が自刃した年。
自分の所有していた文献・書物を大量に寄進した事を考えれば、その時点で、出家、及び隠遁生活を決めていたに違いない。

002 足利 持氏 004 長尾 景仲
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