京都より早く戦国時代に突入したきっかけが「享徳の乱」(1455~1483年)。
1439年に6代将軍・足利義教に父親(鎌倉公方・足利持氏)を殺された原因は、家臣である関東管領・上杉氏にあると睨んだ鎌倉公方・足利成氏が復讐し、関東管領・上杉憲忠(父親が公方だった頃の関東管領・上杉憲実の息子)を殺害(1455年)。
これにより、関東諸侯を巻き込んだ、公方家VS関東管領家の抗争に発展。
憲忠の死後、弟・上杉房顕が関東管領に就任、従弟の越後守護・上杉房定と合流して上野平井城に入った。
1455年、騒乱の中、足利成氏は鎌倉府を捨て、新たに古河に御所を作った(古河公方の誕生)。
関東は利根川を境界に東側を古河公方陣営が治め、西側を関東管領(上杉氏)陣営が支配する事となり、関東地方は事実上東西に分断される事になった。
1466年には、関東管領・上杉房顕が病死したため、顕定が後継となる。
京都では、1467年に「応仁の乱」(~1477年)が勃発。全国的に戦国時代の突入となった。
1476年には、関東管領側の武将・長尾景春が反旗を翻し、関東各地で合戦。
関東管領・上杉顕定は、古河公方派と戦いつつ、内紛の制圧にも追われた。
1477年、応仁の乱、終息。勝敗がつかないまま終わり、戦後罪に問われる守護もなかった。

1478年、「長尾景春の乱」(1476~1478年)のさなか、戦いに飽きた足利成氏が、この上杉家の内紛を利用して、少しでも有利な条件で和睦をしようと打診してきた。
1480年、扇谷上杉家の家宰・太田道灌の活躍により、「長尾景春の乱」終わる
1483年、関東管領の山内上杉顕定と、分家筋の扇谷上杉定正は、古河公方・足利成氏と和睦し、「享徳の乱」(1455~1483年)がようやく終わった。
1486年、部下である家宰・太田道灌の名声が高まる中、下剋上の不安を感じた扇谷上杉定正が、太田道灌を暗殺。その後、急速に扇谷上杉家の勢力が衰退していく。
1487年には、山内上杉家の上杉顕定(関東管領)VS扇谷上杉家の上杉定正(没後は甥・朝良)の「長享の乱」が勃発(~1505年)
上杉家一族の内紛が激化する。
この戦いによって上杉氏は衰退し、駿河今川氏の客将・伊勢宗瑞(北条早雲)の関東進出を許す結果となった。
1493年には、その伊勢盛時(北条早雲)が堀越公方のいる伊豆討ち入りを果たしている。

1494年に、扇谷上杉家の上杉定正が死去すると、それまで扇谷上杉氏を支持していた古河公方・足利成氏は、山内上杉氏側に方針転換した。
1495年、伊勢盛時(北条早雲)が、小田原城を奪取。関東進出の足場を固め、1497年には、伊豆を完全に平定し、自らの領土とした。
1498年には、足利茶々丸を殺害し、堀越公方が滅亡。旧勢力の一端が終わりを告げた。
1505年、関東管領・山内上杉顕定の軍勢に河越城を包囲された扇谷上杉朝良が降伏を表明し、ようやく「長享の乱」(1487~1505年)が終結
戦後、朝良の処遇は二転三転したが、結局、扇谷上杉家の当主をそのまま継続した。

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