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武将データ一覧 002 足利 持氏
鎌倉公方を滅ぼし、有力大名をことごとく攻撃した、冷徹無比の魔将軍 001
足利 義教
Ashikaga Yoshinori
身分 室町幕府 第6代将軍(征夷大将軍)
在任:正長元年(1428年)~嘉吉元年(1441年)
改名 春寅(幼名)→義円(法名)→足利義宣→義教 別名 籤引き将軍、籤将軍、悪御所
誕生
明徳5年(1394年)
死没
嘉吉元年(1441年)
享年 48歳
氏族
足利氏(足利将軍家)
父母
父:足利義満(3代将軍)
母:藤原慶子
兄弟
義持(4代将軍) 義嗣
義教  義昭 法尊ほか

義勝 正知 義政 義視
義永 義尭 義観

猶子
義快(二条良基の子)
政超(九条政忠の子)
性格
まさに「魔王」のイメージ。
専制政治を実行し、将軍の権力維持に努めた。
小さい事も、耳障りな事も嫌い、説教しようとした僧侶に頭から熱湯をかけ、以後話せないようにしたとか、勺の下手な女中の髪を切らせ、尼にしたとか、短気この上ないエピソードが豊富にある。

プロフィール
3代将軍・足利義満の三男として生まれる。
長兄は、4代将軍・義持。
元服前の10歳の応永10年(1403)に僧侶となる。
その後、義円と称し、応永26年(1419年)には、僧界最高位の天台座主に補せられた。
兄である4代将軍・義持は、存命中に5代将軍に唯一の実子である義量(よしかず)を置いたが、病弱のため早世し、義持は死の直前まで後継を決めていなかったため、四人の弟から選ぶ事とした。
いずれも僧侶であったが、くじ引きで義円が選ばれた。
義円は応永35年(1428年)に義持が亡くなった後、還俗して義宣(よしのぶ)と改名した。
ただ、元服前に僧となり、官位もなかったため、すぐに将軍の座に就く事に反対意見が出て、髪が伸びて元服するまで待つ事となった。
その際に、 義持の猶子となっていた鎌倉公方の足利持氏が将軍になるのではないかとの噂が広まった。
持氏自身も不満を持ち、義教の将軍襲職祝いの使者を送らなかったという

しかし、その後、義宣は正式に征夷大将軍に任じられ、名も義教に変えた。
義宣は「世を忍ぶ」に通じると嫌ったためとも言われている。
将軍に就いてから当初は、施政も前例にならっていたが、家臣の意見に耳を貸さなくなっていった。
公家にも相続など口を挟むようになり、寺社にも専制政治を行うようになっていった。
永享6年(1434年)、延暦寺が鎌倉公方・足利持氏と共謀し、義教を呪詛しているとの噂が流れたため、義教はただちに比叡山延暦寺に圧力をかけ、いったん和睦したと見せかけ、翌年、延暦寺の代表僧侶を結果的にだまし討ちし殺害した。
関東の鎌倉公方・足利持氏にも、圧力をかけ、持氏の家臣でもある関東管領・上杉憲実を利用して、関東の諸大名に持氏包囲網を結成させ、持氏討伐の勅令を奉じて朝敵に認定し、 関東討伐を実行した。
持氏は大敗して恭順したが、義教は憲実の助命嘆願を無視し持氏を自刃させ鎌倉府をいったん滅亡に追い込んだ(永享の乱)
その後、逃亡していた持氏の遺児の春王丸・安王丸兄弟が結城氏朝に担がれて叛乱を起こした(結城合戦)が、結果的にこれも殲滅
義教は、春王丸・安王丸を京への護送途中に殺させた。
また、義教は有力守護大名に対して、その家督継承に積極的に干渉することにより、支配力を強める政策を行った。
意に反した守護大名らは、刺客を送られ暗殺された。
身の危険を感じていた守護大名の一人・赤松満祐(みつすけ)・教康(のりやす)親子は、嘉吉元年(1441年)、「鴨の子が多数出来」したことと、関東の持氏征伐を終えた慰労という名目に、義教を屋敷に招待し、そこで、義教の首をはねた(嘉吉の乱)
恐怖政治が終わりを告げた。
しかし、この頃から、室町幕府の弱体化が顕著になってくる。
後の織田信長の生涯と似ているところが多いと指摘する識者も多い。

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