第3回 三大戦国大名 比較年表
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【第4回】

関東三英傑、初の激突と信長の登場(1553~1560年)

・晴信、信濃制圧へ!
・氏康、着々と関東の領土拡大へ!
・景虎、信濃と関東に現る! 解説を見る
武田家 上杉(長尾)家 北条家 その他 勢力地図
天文22 1553 3月、武田晴信(33)は、村上義清討伐のため、深志城(現在の松本城)に入る
4月2日、苅屋原城(松本市刈谷原町)攻略
4月9日、晴信(33)は、ついに村上義清の本城・葛尾城(長野県埴科郡坂城町)を攻略→


武田軍が、ついに北信濃を制圧→晴信は、これにより越後の長尾景虎と国境を接する事となる
2月10日、景虎の兄・長尾晴景死去。享年45。







村上義清(53)は、たまらず越後の長尾景虎(24)を頼る ※この頃すでに、小笠原長時など信濃の諸侯が晴信に追われ越後に救援を求めていた
 


4月、濃尾国境の聖徳寺で、美濃の斎藤道三(60)と尾張の織田信長(20)が初めて会見→道三信長の行軍姿に圧倒され、信長の全面支持を改めて表明した
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    5月、村上義清は北信濃の国人衆と景虎からの支援の兵5000を率いて、八幡の戦い(千曲市八幡地区、武水別神社付近)で武田の先鋒部隊に勝利。村上義清葛尾城奪回に成功。晴信は一旦兵を引き深志城に後退し、甲府に帰る。
7月末、晴信は甲府を発し佐久口から再び北信濃に侵攻→8月1日、和田城(小県郡和田村上の山)を攻略→8月4日、鳥屋城(小県郡武石村鳥屋)を落す→8月5日、村上義清の立て籠もる塩田城(長野県上田市前山)を陥落させ、本陣とする→村上義清は城を捨てて越後へ逃れる
8月中旬、長尾景虎、自ら兵を率いて春日山城を発す
       第1回川中島の戦い
(布施の戦い/更科八幡の戦い)

8月下旬、景虎は北信濃へ出陣→9月1日、布施の戦い(長野市篠ノ井)で武田軍の先鋒を破り、軍を進めて荒砥城(千曲市上山田3509-1)を落とす →3日には、景虎は小県方面を攻めるとみせかけ、松本平の入口に当たる青柳城(長野県東筑摩郡筑北村坂北)を攻める→景虎は、さらに南下して虚空蔵山(こくぞうさん)城(長野県東筑摩郡筑北村乱橋)を落とし、ここに本陣を移した  ※晴信は、景虎の誘いに乗らず、本陣を塩田城から動かず
武田軍は、深志城の前線基地となる苅谷原城(松本市刈谷原町)救援のため、荒砥城(長野県千曲市上山田3509-1)に夜襲をしかけ、長尾軍の退路を断とうとしたため、景虎八幡まで兵を退く→景虎は、急きょ塩田城方面へ兵を戻し、千曲川を挟んで晴信と対峙→両軍にらみ合いに終わり、景虎は9月20日に越後国へ引き揚げた→晴信も10月17日に本拠地である甲斐国・甲府へ帰還
景虎の戦果→村上氏の旧領奪取こそできなかったが、村上氏という防壁が崩れた事により北信濃の国人衆が一斉に武田氏になびく事態を防ぐ事には成功
晴信の戦果→善光寺平進出は阻まれたものの、小県はもちろん村上氏の本領埴科郡を完全に掌握する事に成功
   
    晴信は信濃国の佐久郡、下伊那郡、木曽郡の制圧を進める

この頃、晴信は、軍師・山本勘助(61)とともに、信濃を突き抜け越後を望むが、予想以上に景虎が強敵とみて、同じ関東で覇を争っている相模と同盟を強化し、さらに駿河の今川家と相模の北条家を結ばせ、後顧の憂いを無くすため、甲相駿の三国同盟を画策する
景虎、初の上洛
川中島第一次合戦の直後に、叙位任官の御礼言上のため上洛して後奈良天皇に拝謁し、「私敵治罰の綸旨(りんじ)」を得る(同行人数、ルートなど詳細不明)→景虎と敵対する者は賊軍とされ、武田氏との戦いの大義名分を得る→同時に、景虎高野山金剛峰寺、比叡山延暦寺などの寺社も参詣し、大徳寺からは法号「宗心」をもらっている※畿内に約3ヶ月滞在
   
23 1554

2月、晴信(34)は、北条の富士川出兵に伴い、駿河の義元からの要請で、出兵する
 
2月、北条氏康(40)、義元が三河制圧に没頭している隙をつき、1545年の河東一乱の停戦以来、再び駿河に兵を進める→→→→→
※このタイミングでの出兵に、甲斐の思惑が見え隠れする
1月、尾張の織田信長(21)村木砦の戦いで今川勢を破る

←駿河の今川義元(36)は、同盟関係の甲斐の晴信に援軍を請う
    3月、今川の軍師・太原雪斎の働きかけにより、善得寺(静岡県富士市今泉)にて、
武田晴信北条氏康今川義元が一堂に会し、甲相駿三国同盟が締結
    背景甲斐の武田は、信濃を完全制圧し、越後との直接対決に備え隣国との友好関係は必須だった
7月、晴信の伊那侵攻の時、すでに甲斐の家臣となっていた松尾小笠原氏(小笠原信貴・小笠原信嶺父子)は、信濃先方衆として活躍し松尾城(長野県飯田市)を回復→晴信とともに伊那鈴岡城(長野県飯田市)を攻略→城主の小笠原信定(長時の弟)は敗走
8月、木曽義康、義昌父子がこもる木曽福島城を攻める→降伏→子の義昌の妻に晴信の娘(真理姫)を迎えるなど武田家の親族衆として厚遇した→これにより信濃は、川中島の以北を除き、武田の領土となる

12月、晴信の娘、北条氏政(17)に嫁ぐ





















12月、北条(きたじょう)高広、甲斐の晴信と通じて北条城(新潟県柏崎市大字北条)において主君・長尾景虎(25)に反乱
背景相模の北条は、甲斐の共通の敵である越後の景虎との関東覇権争いに集中するのに好都合だった
7月、氏康の娘、今川氏真(17)に嫁ぐ









10月、氏康、河越夜戦で大敗し、古河公方の座を降ろされていた古河城足利晴氏・藤氏を幽閉
背景駿河の今川はこの時期、上洛のためにも、遠江、三河、そして尾張へと西に勢力を伸ばそうとしていた
弘治1 1555
3月、山県昌景(27)が安曇郡を平定
小谷五人衆が信越国境を攻める
2月、北条高広、長尾軍の反攻を受けて降伏→その後は景虎(26)に再び仕える この頃、安房の里見義堯がそれまで領地としていた上総西部のほとんどが北条氏に奪われることになった。この事態に対して義堯は北条方についた国人勢力の抵抗を鎮圧し、奪われた領土の奪還を図りつつ、越後の長尾景虎と手を結び、太田氏・佐竹氏・宇都宮氏等と同調して、あくまで氏康に対抗する姿勢を見せた


3月、今川家の人質のなか、三河の松平家の跡取りである竹千代が元服し、松平元信(13)と名乗る。実際は今川家の家臣扱いだった。今川家の軍師・太原雪斎に養育されてきた。

4月、那古屋城を拠点にしていた織田信長が守護代の織田信友を攻め、清州城を奪取→尾張の中枢を制圧







10月、厳島合戦にて毛利元就(59)陶晴賢(すえはるかた)を破る


11月、駿河今川家の軍師・太原雪斎(60)が死す→以後、今川家の弱体化が進む
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    この頃、善光寺の国衆・栗田寛久(鶴寿)が武田方に寝返り、善光寺平の南半分が武田氏の勢力下に置かれていた
    第2回川中島の戦い(犀川の戦い)
3月、晴信(35)は、犀川の南、大堀館(おおぼりやかた)/大塚館(おおつかやかた)(現在の更北中学校)に陣を敷いた。
栗田寛久と武田氏の援軍兵3000は、犀川の北にある、栗田氏の旭山城(長野市安茂里)に篭城
4月、景虎(26)は突如、善光寺平に侵攻し、犀川の北、横山城(善光寺の東側、城山公園一帯、彦神別神社あたり)に陣を敷く→旭山城を封じ込めるため、付け城策として葛山(かつらやま)城(長野市茂菅)を築いた
晴信旭山城の後詰として川中島へ出陣し、犀川を挟んで両軍は対峙
7月19日、長尾軍が犀川を渡って戦いをしかけるが決着はつかず(晴信は300挺の鉄砲を用意)→両軍は200日余に渡り対陣
晴信は、駿河の今川義元に仲介を依頼
※背景~前線(旭山城)と本陣(大塚館)が遠い武田軍は、兵糧の調達に苦しみ、長尾軍の中でも兵が越後に帰りたいとの騒動が数多く起きていた。さらに、長尾軍に呼応して一向一揆の抑えとして加賀に出兵していた朝倉宗滴が亡くなったことで、北陸方面への憂いが生じていた
→閏10月15日、駿河から軍師・太原雪斎が派遣され和睦が成立し、両軍は撤兵した→和睦の条件として、晴信は北信国衆の旧領復帰を認め、旭山城を破却することになった。これにより景虎の勢力は、善光寺平の北半分(犀川以北)を確保
    11月、武田四郎(後の勝頼)の生母であり、晴信最愛の側室・諏訪御料人没す(享年26) 11月、後の景虎~謙信(26)の後継者となる景勝(幼名・卯松)が坂戸城(南魚沼市)にて城主・上田長尾越前守・政景の次男(母は景虎の姉・仙桃院)として誕生
2 1556 2月、晴信(36)景虎側の葛山城の落合一族の内部分裂を策す





8月、晴信真田幸隆(44)に、景虎側の拠点である尼厳(あまかざり)城(長野市松代町東条)を攻略させる

3月、この頃、越後国内では、揚北衆などの所領境界線の紛争が絶えず起き、景虎(27)が仲裁しても従わず。さらには、軍事動員もままならなくなった。
また、行政面でも現代で言えば経済担当大臣に当たる大熊朝秀が国人衆によって追放される

景虎、越後国主を退き、僧・宗心として仏門に入る

越後を出奔し高野山金剛峰寺へ向かう途中、長尾政景らが引き止めた

8月、国人衆からの誓紙提出、人質提供などを条件とし、復帰に応じた(復帰まで約半年間)
※この間、大熊朝秀晴信に呼応して叛乱を起こし、甲斐に逃亡→武田家臣となる

3月、安房の里見義堯は、里見水軍を率いて北条水軍と戦い、大勝(三浦三崎の戦い















12月、宇都宮氏の家臣・芳賀高定は、北条氏康を通して常陸国の大名・佐竹義昭に宇都宮城奪還のための出兵を要請→受諾した佐竹軍が進軍→宇都宮城を占拠していた壬生綱雄を追放→主君・宇都宮広綱宇都宮城に帰還させる
3 1557 将軍・足利義輝から甲越和睦の御内書が下される→これを受諾した長尾景虎(28)に対し晴信(37)受諾の条件に信濃守護職を要求

2月15日、武田軍が葛山城を陥落させる→さらに北進して、高梨政頼の居城である飯山城(長野県飯山市飯山)に迫った→善光寺平をほぼ制圧





7月、元・古河公方の足利晴氏は、古河城復帰を許されたが、9月には氏康によって廃された嫡男・藤氏の新公方・義氏打倒のクーデターが発覚→晴氏は再び拘束され、栗橋城主・野田氏のもとに預けられた
4月、景虎、雪解けを待って善光寺平に着陣→旭山城を奪回
同じ時期、晴信も出陣するが、所在を晦ます
7月、景虎尼厳城を攻めるが武田軍は決戦を避け、景虎飯山城に引き揚げた
同じ時期、晴信北安曇郡小谷地区を攻略→糸魚川口に迫る
    第3回川中島の戦い(上野原の戦い)
8月下旬、上野原(長野市若槻上野付近/髻山もとどりやまのふもと)において両軍対峙するが、大きな合戦はなし
9月、景虎旭山城を再興したのみで大きな戦果もなく、越後国へ引き揚げ
10月、晴信も甲斐国へ帰国→北信濃の武田氏勢力は拡大し、長尾氏の有力な盟友であった高梨氏は本拠地中野(善光寺平北部)を失って弱体化
永禄1 1558 1月、晴信(38)は将軍より、信濃守護に正式に任じられる

秋、景虎(29)、関東管領・上杉憲政から、上杉家の家督と関東管領職の譲渡の打診を受ける・・・憲政が景虎に早急なる関東出兵をしてもらうため
   
2 1559
2月、晴信、出家し「信玄」(39)と号す


4月、景虎(30)、2度目の上洛
・・・上杉家、関東管領職の相続の件で、将軍・足利義輝の意向を聞くため※京における将軍の地位安定を図り、その後ろ盾となり、その権威を利用して関東、信濃平定に臨もうとした→実際京に上ると、将軍家に力は無しと判断→越後下向を相談してきた関白・近衛前嗣(このえさきつぐ)を味方にし、将軍家以上の権威を手に入れることにより、武田、北条に対抗しようと路線変更を決める
11月下旬、景虎、越後に帰国








氏康(45)、小田原衆所領役帳を作成・・・家臣に課す軍役、普請役などを徴収するための基本台帳~家臣統制がしっかり成されている証拠
↓直後
12月、氏康は嫡男・氏政(22)に家督を譲る→氏政は北条家の第4代当主となるが、氏康の存命中は氏康・氏政の両頭体制が続く
 
3 1560









9月、信玄(40)、長尾景虎の関東遠征の隙を突き、信濃に出陣
海津城(長野市松代町/後の松代城)を築き、川中島支配の拠点とする→高坂弾正昌信を城主とする
この頃、石山本願寺(大阪市)と呼応し、加賀・越中の一向宗徒に越後侵入を企てさせる。
3月、景虎(31)、初の越中出陣、富山城を落とす

8月、氏康が里見領に侵攻して来ると、里見義堯久留里城に籠もって抗戦し、上杉軍の援軍を得て大勝し、反攻を開始して上総西部のほとんどを取り戻す

5月19日、桶狭間の戦いで兵2,000あまりの織田信長(27)が2万5000の大軍を率いる今川義元(42)を破る→5月23日、今川軍・別働隊の先鋒で出陣していた松平元信(18)は難を逃れ、岡崎城に入る→戦後、東海道(駿府・遠江・三河)に君臨した今川家が没落する一方で、勝利した織田信長は美濃・伊勢侵攻から畿内の制圧へ動き、戦国時代の重要なキーパーソンに躍り出る
8月29日、景虎、ついに三国峠を越えて、初めての関東出陣を果たす
・・・この頃、北条氏康(46)は、足利義氏を傀儡の古河(関東)公方として担ぎ、実質的な支配を進めていた
9月、長尾景虎上野岩下城、北条氏の直轄城にも等しい沼田城を攻略→厩橋城(前橋市)に入城→上野国をほぼ掌握
5月から里見氏久留里城に追いつめていた氏康は、景虎越山を知ると、素早く囲みを解き、河越城に入る
10月29日、景虎、下野、常陸の諸将に参陣を促す。
氏康は、決戦を避け、小田原城へ戻る
景虎厩橋城を関東における拠点とし、ここで越年
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