山形県の日本海側、庄内地方には、「庄内三名湯」と呼ばれるあつみ(温海)温泉、湯野浜温泉、湯田川温泉がある。大型温泉ホテルが並び、観光地的なイメージが強いあつみ温泉や湯野浜温泉に対し、湯田川温泉には古くから伝わる湯治場としての面影が残る。この取材はまだ雪深い2月。軒の低い建物が身を寄せ合うようにして佇むこの湯田川の街の様子は、厳しい冬の寒さを越すための住民の連帯感、力強さにも見える。さほど広くない道を挟み、ひっそりとした雰囲気で旅館が並ぶ温泉郷なのである。
温泉街に設けられている「正面の湯」、「田の湯」という共同浴場は、朝晩にもなると風呂桶とタオルを脇に抱えた多くの地元住人が行き交う、街の社交場となる。この庶民的な雰囲気はやはり多くの文人にも愛され、地元が生んだ歴史小説作家、藤沢周平をはじめ、種田山頭火、柳田国男、横光利一などが逗留し、執筆を重ねた足跡が街の各所に見られる。格式の高さ、敷居の高さを感じさせない魅力は昨今変わらぬようで、開湯1300年という伝統の中、庄内藩政の時代には藩主やお姫様がお湯の良さに惹かれて来たという言い伝えがあるが、それもお忍びでのことだったという。
この雰囲気の中に佇む「珠玉や(たまや)」は5階建て、全8室の小さなお宿。全室禁煙でファミリー世代はじめ、若いカップル、そして年配のご夫婦まで気軽に楽しめる雰囲気が人気を呼んでいる。この湯田川温泉随一の老舗宿、「九兵衛旅館」が平成15年に、空になっていた元旅館のこの建物を購入、改装を施してリニューアルオープンとなったのである。宿名には、「珠玉の宿になってほしい」という想いが込められている。
建物は近代的な鉄筋造りの5階建てだが、改装の際に内装を民芸調に統一。暖色系の灯りに照らされた、太い飾り梁が組まれた天井や柱に白壁という空間となった。特にロビー周りはその様子が色濃く、雑然と置かれた土産物や、女将さんが好きな竹久夢二の絵画などの品々が、“田舎の祖父母の家”といった風情だ。門扉をくぐり館内に入ると目に入るこの光景には、到着後すぐに寛ぎを感じることができるだろう。
館内のパブリック施設は少なく、このロビーと2階の食事処、そしてステンドグラスがレトロモダンな雰囲気を醸し出すライブラリーがあるのみ。このライブラリーにはノートPCが置かれ、ネット接続がされている。蔵書には藤沢周平の作品はもちろんのこと、旅情かき立てる本が並ぶ。なお、この部屋は館内唯一の喫煙部屋ともなっている。
8つある客室は全て和室で、さっぱりとした清潔感がある。広さは8〜10帖で、全室にトイレと洗面が付く。風呂の付く客室はないので、宿泊客は全員、3つある貸切風呂を利用する事になる。1〜4階はエレベーターで行き来できるが、5階部分にある展望露天風呂は、元屋上だった箇所に増設したもの。したがって4階から階段で上ることになる。
和銅5年(西暦712年)に、傷を負った白鷺が葦原に降り、そこに湧いていた湯で傷を癒したと言われることから「白鷺の湯」とも呼ばれる湯田川温泉。ここのお湯はナトリウム・カルシウム-硫酸塩温泉で、無色透明・無味無臭の透き通った肌触りの良い100%の源泉がかけ流しにされている。「傷の湯」・「脳卒中の湯」とも呼ばれ、血圧を下げ、痛みを和らげる鎮静作用があるという。療養泉に共通する一般的な適応症に加え、特に切り傷、やけど、慢性皮膚病、動脈硬化症、眼病、慢性婦人病などに対する効能が高いと言われている。泉温も42〜43度ということから加水加温などによる温度調節も必要とせず、また湯田川全体で毎分約1000リットルという豊富な湧出量を活かした、贅沢なお風呂だということができる。これは、公式ホームページに詳細に描かれているので参考にされたい。
特に宿泊客は無料にて利用ができる共同浴場、「正面の湯」と「田の湯」は、県内はもとより、全国的に見ても屈指の新湯注入率を誇る「天然かけ流し」温泉として知られる。加水・加温・循環を全くしていない極めて純粋な天然温泉には、温泉マニアであれば是非訪れたい。毎日多くの利用者で賑わうことから、いかにこの街の住人に愛されているかもわかる。
上質のお湯を堪能したら夕食だ。2階にある食事処でいただくのが基本だが、未就学の小さなお子様連れの場合など、希望者には大人1名¥1,050にて部屋食が可能となる。取材時(2008年2月)は海が荒れて漁の厳しい季節。元寿司職人、阿部料理長の創意工夫にあふれるメニューを紹介する。
先付けには通年出される人気の一品、毎日料理長が精魂込めて練り上げるゴマ豆腐。やわらかい口当たりとゴマの香ばしさが際立つ。山形県産のふきに南蛮味噌をかけたものと、地野菜のあさつきに岩のりをのせたもの、あっさりとした味わいをゴマの香りが引き立てるズワイガニのごま酢がけの三品からなる前菜が食欲をかきたてる。
続いて、由良港で挙げられた牡丹エビ、鯛、ほっき貝が上品に盛り付けられているお造り。漁の乏しいこの季節は近海ものに限定しないが、食材の宝庫でもある山形では、海の幸も豊富。季節を通じて様々な魚介類を堪能することができる。
メインには庄内豚の一種、羽黒で育てられた豚を、昆布だしにさっと通していただくしゃぶしゃぶ。添えられたネギやしいたけ、水菜なども、山形の地のものを使用するこだわりが見られる。
蒸し物のなめらか茶碗蒸しには、百合根、三つ葉、海老が入る。長芋をすり下ろすことで口当たりがさらに柔らかく、食べやすさが増す。揚げ物は由良産の赤エビを使った、れんこんのはさみ揚げ。こちらは山椒をまぶした塩をつけてあっさりといただく。中に凝縮された具材の旨味が口の中で広がる一品だ。
汁物にはこの地方の郷土料理のどんがら汁。漁師などが日常食するものだそうで、飾り気のない味つけが魚の旨味を引き出している。寒いこの季節には毎年出される、身体の温まる定番料理で、これを楽しみに来る客も多いという。粘りが強い藤島産はえぬきの白米と、田川のカブ、青菜漬との相性も良い。
料理長お手製のアイスクリームは山形産の苺を使用。アイスクリームの濃厚な味わいとさっぱりとした口当たりが美味しく、食後に口の中を爽やかにしてくれるものであった。
満腹になり、しばらくたったらまたお湯に浸かるのも良いだろう。この宿には3つの貸切風呂と、「九兵衛旅館」にある2つの大浴場、そしてどちらも徒歩1分内の共同浴場が2つある。半径100メートルほどの狭いエリアの中で、これほど違う趣向の湯浴みを楽しめる旅館はそうそうないだろう。ひっそりとした佇まいのこの湯田川だけに、「珠玉や」にもカラオケなどの騒ぐ施設は設けられていない。ここでは温泉浴を軸に、のんびりと過ごすのがよいだろう。なお、5階の窓が全開放できる展望風呂からは、軒の低い湯田川温泉街の屋根が連なるむこうに広がる田園地帯、そして遠くに光る鶴岡市街の眺望が開ける。湯に浸かった身体は芯から温かく、頬をなでる風は冷たい。夜の静寂に包まれた冬の雪国の光景は、この旅の忘れがたい記憶となった。
朝を迎える。朝食も夕食同様、2階の食事処でいただく。小鉢には蓮根のきんぴら、黒森産のアスパラ菜、焼き鮭とだいこんおろし、温泉卵、藤島産のはえぬき、なめこ汁といった定番メニュー。美肌効果があるといわれる郷土ものの塩納豆もご飯によくあう。香の物も自家製のものが多い。この日はキュウリの漬物は自家製。普段は近所のおばちゃんが漬けたものなどをふるまうという。これも手作りコーヒーブランマンジェに、マンゴとオレンジを添えたものがデザートに出された。阿部料理長はデザートづくりも得意とのこと。別料金になるが追加メニューとして、誕生日や記念日用のケーキも事前予約で受け付けているそうだ。
食材の宝庫、山形だけに、ここでは旬の香りと味覚が楽しめる。5月頃は名物の孟宗竹が有名だ。流通が少なく稀少な地孟宗を、酒粕と味噌で仕立てた「孟宗汁」は柔らかく、噛むほどに独特の甘みが口の中に広がる。その味は多くのファンを持ち、これを求めて毎年この時期に来るリピーターもいるという。また、青竹を切った器に地酒を注いで飲む「かっぽ酒」など、竹を使用した名物料理は多い。日本一の枝豆、「だだちゃ豆」の本場白山はすぐそば。また、日本海の幸が集う庄内浜・由良漁港も近く、アワビや庄内ガキ、鮭、ヒラメなどの海の幸は豊富にあがる。これら山海の幸が缶詰や乾物などのお土産で持ち帰ることができる。筍の水煮(大・¥900)、だだちゃ豆せんべい(¥525)、黒ばらのり(¥525)などが人気だという。これらは、1階のロビー内にある売店で購入が可能だ。また、宿泊日の20時までに注文する若草餅(8個入り¥1,050)も人気。お茶請け菓子にもなっているものなので、気に入ったら注文するのもいいだろう。
湯田川温泉郷の奥は山の斜面を利用した梅林公園がある。湯田川地方特産の孟宗の竹林が広がり、敷地には約500本の梅の木が植えられ4月は花見客で賑わい、地元民に親しまれている憩いの公園だ。その他にも見所は多い。街中にある650年創建の由豆佐売(ゆずさめ)神社はこの土地の温泉の守り神が祭られている。ここで、藤沢周平原作、山田洋二監督の「たそがれ清兵衛」(主演/真田広之・宮沢りえ)のお祭りのシーンが撮影され、入口にはその記念碑も残っている。
少し足を伸ばせばさらに見所が増える。国宝の五重塔がある羽黒山などの出羽三山、重要文化財が多く所蔵されている致道博物館、そして映画「スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ」(監督/三池崇史、主演/伊藤英明、出演/佐藤浩市、伊勢谷友介、桃井かおり、香川照之、石橋貴明ほか)や藤沢周平原作の5本目の映画、「山桜」(監督/篠原哲雄、出演/田中麗奈、東山紀之、檀ふみほか)などが撮影された庄内映画村も近い。「海坂藩」の舞台でもあるここ庄内の地は、実に多様な情景を生み出す地であることがわかる。是非、行き帰りに散策を楽しんでいただきたい。
部屋にスタッフが入るのも布団敷きのみという、つかず離れずの接客で実に気楽に利用ができるお宿だが、街全体には雪国特有の静かな、そしてどこかあたたかい情緒がある。一度宿泊してここのお湯や情緒を気に入ったら、二度三度と訪れる客が多いのもうなずける。
冬季限定となるが、3食付の湯治プランも用意されている。湯治といえば年配の方がするもの、といったイメージもあるが、最近の傾向としては若年層の利用が増えているという。低予算ながら、一泊二日だけの宿泊では味わえない、湯治場ならではの雰囲気が楽しめることが要因なのだろう。
極上のお湯、予約もいらず何度でも使える貸切風呂、山海の幸をふんだんに使用しながらリーズナブルに抑えられた料金。数え上げれば多くある魅力だが、お子様連れの部屋食の対応や高齢者向けの簡易ベッド、車椅子の用意など、あらゆる客層に広く開けられた間口と、さりげなく準備されたおもてなしの心こそが、「珠玉や」の何よりもの魅力なのだろう。(eb)