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黒川温泉物語

黒川温泉は、九州・熊本県の北部、大分県との県境にも近い、山に囲まれた南小国町の鄙びた温泉地。
九重連山と阿蘇の外輪山の裾野というロケーションながら、周辺にはこれといった観光名所や景勝地があるわけではない。
平地が豊富にあるわけでなく、どちらかと言えば狭い土地に民家が寄り添っている典型的な寒村の様相。
歴史を紐解くと、一番の老舗と言われる「御客屋」は、江戸時代中期の1752年頃、創業との事。
肥後熊本藩の役人が利用する本陣として利用された記録が残っている。
明治以降は、周辺には鉄道もひかれず、次第に忘れられた存在となる。
当時、数軒あった旅館も、半農半商の状態。
たまに平日にお客が来ると、驚かれるほどだったという。
ところが、1980年代半ばに、日本の観光史上、奇跡的な現象を起こすことになる。
九州はもちろん、日本全国、さらに今では世界中からお客が訪れる、国内有数の人気温泉地となったのだ。
その経緯を、ダイジェストでご紹介しよう。

黒川温泉での出来事周辺の出来事
昭和
30年
(1955)

松﨑和高氏が、経営難の旅館つるやを買収→「ふもと旅館」と屋号を変え旅館業に乗り出す。

この頃、「新明館」の後藤哲也氏(昭和6年生まれ)が、名物の洞窟風呂(岩戸風呂)をプレオープンさせる。

石原慎太郎「太陽の季節」発表。

昭和
36年
(1961)

「ふもと旅館」の松﨑和高氏が奔走し、組合設立→設立と同時に組合長となる(町議も三期務める)。※実情は借金対策のため。個人経営の宿では銀行は金を貸さないので。

松﨑和高氏は、この頃から昭和58年頃まで黒川温泉を率いていく。特に、九州横断道路開通後の黒川温泉の知名度向上の功績は大きい。

この頃から、昭和39年に完成予定の「やまなみハイウェー」を見越して、湯治場温泉地からの脱却と観光温泉地への浮揚を試みる。

松﨑和高氏の勧めで、井美義氏が「いこい旅館」を創業(7月)。

俳優・赤木圭一郎、東京の日活撮影所でゴーカートを運転中、鉄扉に激突し死亡。

樺太犬タロー、南極から四年半ぶり帰国。

昭和
38年
(1963)

「やまなみハイウェー」開通に向けて「やまびこ旅館」創業(4月)。

初のテレビアニメ「鉄腕アトム」放送開始。

NHKテレビで大河ドラマ始まる。

黒川温泉での出来事周辺の出来事
昭和
39年
(1964)

「やまなみハイウェー」開通直後に「南城苑」創業(12月)。

開通後→竹田~瀬の本から黒川を通って小国へ続く国道442号はバイパスができておらず、舗装もされていない狭い道にも関わらず「黙っていても客は来る。旅館にとっては笑いが止まらない状態。」がしばらく続く。

10月3日に、九州横断別府阿蘇道路(やまなみハイウェー)が東京オリンピックの1週間前に開通。※別府から九重連山、阿蘇五岳を見ながら標高千m級の広大な美しい高原や森林地帯をぬうようにして走る53.2kmの九州初の本格的観光道路。

第18回オリンピック・東京大会。

昭和
40年代
初頭

黒川温泉が、やまなみハイウェー開通の余波でプチブーム・・・2~3年ほどで終わる。

当時の宿の実態は、湯治旅館より少しましな程度。設備もサービスも低レベルだった。

 
昭和
41年
(1966)

「夢龍胆(ゆめりんどう)」創業(5月)。

当時、熊本県で二軒目の政府登録国際旅館の「瀬の本観光ホテル(現・湯峡の響き 優彩)」(町外資本)開業(7月)。当時は70室前後。※組合長である松﨑和高氏が用地探しに協力。

この頃、旅館数11軒となる。

S41年ビートルズ日本武道館で公演。

"ひのえうま" で出生数は前年の25%減。

黒川温泉での出来事周辺の出来事
昭和
43年
(1968)

「旅館にしむら」(旧星雲山荘)創業(4月)。

「やまなみハイウェー」開通に当てこんで、上記の6軒(うち4軒が地元出身者)が創業したが、ブームは長く続かなかった。

この頃の組合の寄り合いは中身がなく、何も決められず、ただ酒を酌み交わすだけの集まりだった。

小笠原諸島,正式に日本復帰。

3億円事件、東京府中市で白バイ警官に変装した男が現金輸送車を奪い逃走。

昭和
44年
(1969)

町制施行され、村から南小国町に。

東名高速道路全線開通。

1970
年代
中頃

世代交代の時期で、都会へ出て行った若者がUターンして旅館経営を引き継ぐのが目立った。彼らは、後に都会生活の経験から、観光客の目線で、新しい温泉観光の振興策を考える中心勢力となる。

植村直己、1万2000キロの北極圏単独犬ゾリ横断を達成。

昭和
51年
(1976)

松﨑郁洋氏(昭和28年生まれ)が、福岡の大学を卒業すると同時に黒川に戻る(「ふもと旅館」の三男→後に宿を継ぐ)。

後藤健吾氏(昭和29年生まれ)が、東京の大学を中退し黒川に戻る(後藤酒店を任され後に「旅館山河」を創業)。

田中角栄前首相逮捕。

日本ビクター、VHSビデオを発売と発表。

昭和
52年
(1977)

「旅館山河」新規オープン。

 
昭和
53年
(1978)

昭和52~53年頃、当時、黒川温泉唯一の繁盛旅館だった「新明館」後藤哲也氏が、鹿児島県妙見温泉の「忘れの里 雅叙苑」を視察する→一軒の宿で、日本の田舎の原風景を表現したコンセプトに感銘を受ける→後に黒川温泉のコンセプト「街全体が一つの宿、通りは廊下、旅館は客室」に辿り着くきっかけとなる。

8月、「男はつらいよ 寅次郎わが道をゆく」(第21作)公開・・・ロケ地は隣りの田の原温泉。

昭和
54年
(1979)
 

二度目の石油危機。

ソニー「ウォークマン」第1号を発売。

昭和
55年
(1980)

「ふもと旅館」の松﨑郁洋氏が、福岡県大牟田市出身の久美子さん(現・女将)と結婚。
久美子さんは大学時代、全国の温泉地巡りをしていたが、それが後の『入湯手形』発想のきっかけとなる。

山口百恵、日本武道館で引退公演。

長島茂雄が巨人軍監督を辞任する。

巨人軍の王貞治、現役引退を発表。

昭和
56年
(1981)

この頃、旅館数14軒、収容人数1272人。

ツッパリ子ネコ「なめネコ」大人気。

黒川温泉での出来事周辺の出来事
昭和
58年
(1983)

南小国の町長選挙で「ふもと旅館」の社長・松﨑和高氏が病の身ながら出馬(縁戚関係でもあった現職・藤堂真人氏に挑戦、観光と農業林業を組み合わせた長期的な展望が必要と、不透明な町政にも不満だったらしい)。※実情は旅館関係者に推されたため→結果は落選。現職の三選を許す。

やまなみハイウェー開通(昭和39年)によるプチブームを振り返り「ふもと旅館」松﨑郁洋氏はこう語った。「まだ地域おこしという発想も無かったし、地域共同体としての一体感も無かった。自分たちの無力さに気付いて、何か手を打たなければならないのに、親父たちはそれができなかった。建て替えや増築を繰り返し残ったのは借金だけ。言わばマーケティング戦略など無かった。でもお客さんの情報収集力は早い。客の満足度を知ろうとせず、客を手放してしまった。どうすればいいか気付くのにゆうに10年以上かかった。若い世代が立ち上がったのは、そうした伏線があったから。やまなみハイウェーの開通は、時代の流れを速め、さらに加速させた。決断が早ければ取り残される・・・という事を教えてくれた。」

「いこい旅館」の婿養子(当時)、井(小笠原)和男氏は、「新明館」後藤哲也氏に、アドバイスを求めにいく→後藤氏の指示通り露天風呂を作った→井和男氏のアイディアで周辺に雑木を植えた→その後、繁盛旅館に→黒川温泉に露天風呂造りラッシュが始まる。

任天堂「ファミリーコンピュータ」発売。

昭和
59年
(1984)

この頃から、「いこい旅館」の成功を見て、各旅館で新たに露天風呂造りが始まる。

江崎グリコ社長,自宅から誘拐され身代金の要求。

昭和
60年
(1985)

「ふもと旅館」松﨑和高氏が病死→三男・郁洋氏が32歳で「ふもと旅館」の社長となる→太鼓橋を渡った湯小屋に露天風呂を造る。

瀬の本観光ホテル(現・湯峡の響き 優彩)の常務(当時)・高島淳一氏が、黒川温泉観光旅館協同組合の初代組合長に就任。・・・「形骸化した組合運営から脱却し、お互い知恵を出し合い、成長に向けての真摯な話し合いをすべき」と主張。賛同を得る。

「ふもと旅館」松﨑郁洋氏と「いこい旅館」井和男氏が、鹿児島・妙見温泉「忘れの里 雅叙苑」を視察。

黒川温泉の若手経営者が、人気温泉地と変貌を遂げていた大分・由布院温泉を視察。

7月、黒川温泉の若手経営者が、メディアで日本一住みやすいところとして紹介された長野・野沢温泉を視察。13ある共同風呂を「外湯めぐり」させるサービスを実施していた。

「黒川温泉には強力な売り物がない」という事で、「ふもと旅館」松﨑郁洋氏と、妻であり女将の久美子さんが、各旅館の露天風呂を湯めぐりできる「入湯手形」を提案→特産の小国杉を利用した試作品を作る→間伐材を輪切りした板にシール3枚を貼る方式にした。1枚のシールで一軒の露天風呂が利用できるもの。

「入湯手形」のアイディアは素晴らしかったが、実現に至るまで喧々囂々と意見が飛び交った。当時旅館の数は13軒。うち2軒は露天風呂が無かった。それと、よその旅館の浴衣を着た客が、自分の宿に来たり、自分の客がよその宿に行くのも、「客が取られる」のではないかと不安がる宿経営者が続出したのだ→結局、組合長に一任→実現へ→結果、「一人はみんなのため、みんなは一人のため」という地域共生の考えが生まれた。

9月、プラザ合意がバブル景気の直接の引き金に。

プロ野球ドラフト会議で桑田は巨人、清原は西武が交渉権獲得。

黒川温泉での出来事周辺の出来事
昭和
61年
(1986)

「黒川温泉観光旅館協同組合」として組織編成。

春に「入湯手形」を発行開始→当初は売れなかったが、秋には6000枚を売り切る。

井和男氏(いこい旅館)と松崎郁洋氏(ふもと旅館)らのアイディアにより、黒川温泉街全体に、雑木を植えようと企画。
植樹のノウハウについては、後藤哲也氏(新明館)がアドバイザーを担当した。

第一回目の植樹開始・・・ケヤキ、コブシ、ツバキ、シャラ、ヒメシャラなどを集中的に・・・今から思えば失敗。山に自生している木ではなく、造園屋から買った木だから。枝ぶりが違った。絵になっていない。(後藤哲也氏著書より)

日曜朝市開始・・・2年ほどで終了。農家との考え方の違いが原因。

11月、「奥の湯」創業。

※宿泊客 年間16万人。

この頃、全国で温泉(露天風呂)ブームが起こる→黒川温泉にとって"神風"となる。

英皇太子夫妻来日(ダイアナ・フィーバー)。

昭和
62年
(1987)

2月、一斉に温泉街のすべての看板を撤去(屋根の上、塀、石垣、国道沿いも全部)→デザインを統一化した共同看板を設置。

旅館用下駄の統一。

すずめ地獄の開発。

※「入湯手形」19,052枚販売。

俳優・石原裕次郎死去(52歳)。

昭和
63年
(1988)

観光地づくりシンポジウム開催。

宿泊ギフト券発行開始。

※「入湯手形」25,228枚販売。

青函トンネル(53・85キロ)開通。

ソウル五輪開幕。

平成
元年
(1989)

「いこい旅館」井和男氏が組合長に就任→理事、各部長が世代交代して、ほとんどが30歳代の若い執行部がスタート。

「女将の会」結成→料理の研究や接客対応の向上が目的。

この頃から、植樹事業の成果が表れ、雑木林の生き生きとした姿に観光客から評価される→黒川温泉で、雑木の植樹ラッシュ始まる。

11月、「新明館」後藤哲也氏が、「山みず木」を開業。

※宿泊客数169,912名、
入込客数(推定)509,736名。

※「入湯手形」33,972枚販売。

昭和天皇没。平成と改元する。

東西ドイツのベルリンの壁が崩壊。

平成
2年
(1990)

「ふもと旅館」松﨑郁洋氏が中心となり、「九州歴史街道」を推進・・・江戸時代、天領日田と竹田岡藩を結んだ日田街道は、「岡城道」「小国街道」「日田郡代道」から成り、豊後竹田の岡城を起点に久住山と阿蘇山との間に広がる高原を貫き、肥後小国郷、五馬高原を経て西国郡代が支配する天領日田に繋がる約80㎞の高原ルートだった。
現在の国道442号と212号とほぼ一致し、竹田市(大分)、久住町(大分)、産山村(熊本)、南小国町(熊本)、小国町(熊本)、大山町(大分)、日田市(大分)の7市町村を結んでいる。
江戸の頃は、九州各藩の侍や役人、日田の商人など数多くの人々が往来し、街道の一部は肥後細川藩の参勤交代の道としても使われた。
その街道には、今でも石畳や松並木など歴史的な遺産が多く残されている。
この街道を、観光振興の新たな起爆剤として考えた。

※宿泊客数194,876名、
入込客数(推定)584,628名。

※「入湯手形」47,053枚販売。

東西ドイツが統一される。

平成
3年
(1991)

芝張り、巣箱設置

※宿泊客数229,182名、
入込客数(推定)687,546名。

※「入湯手形」60,757枚販売。

バブル経済崩壊へ。

イラクで湾岸戦争が始まる。

雲仙普賢岳で大規模火砕流発生。

平成
4年
(1992)

「いこい旅館」井和男氏が組合長、南小国町観光協会長に加え、南小国町が第三セクター方式で作った町総合物産館「きよらカァサ」初代館長に就任→この頃から、忙しすぎる井氏への不満が噴出→講演会をこなすのはしょうがないが、本来の組合運営が疎かに。

※宿泊客数251,178名、
入込客数(推定)753,534名。

※「入湯手形」87,001枚販売。

バルセロナオリンピック開催。

国連PKO協力法案成立。

歌手・尾崎豊急死。

黒川温泉での出来事周辺の出来事
平成
5年
(1993)

3月、組合事務所を新築移転→「風の舎(や)」完成。

7月、二期四年を務めた井和男氏から、「やまびこ旅館」武田秀二氏が組合長に改選される→この時期から、組合長、観光協会長、町議会議員といった主要ポストの兼務を禁止→集団指導体制へ移行。現在に至る。

クオリティー部長に就任した「ふもと旅館」松﨑郁洋氏は、温泉街を貫く田の原川は、筑後川の最上流にある事から、河川環境浄化のため、天然成分を含んだ、よもぎ製のせっけん、シャンプーの共同購入に踏み切った。

※宿泊客数245,272名、
入込客数(推定)735,816名。

※「入湯手形」88,055枚販売。

サッカーJリーグが開幕。

皇太子さま、雅子さん結婚の儀。

平成
6年
(1994)

「黒川温泉」のキャッチコピー「街全体が一つの宿、通りは廊下、旅館は客室」をリリース。

井和男氏が「きよらカァサ」館長を退任→和男氏、小笠原姓に戻る→黒川温泉を去る。

※宿泊客数259,822名、
入込客数(推定)779,466名。

※「入湯手形」90,999枚販売。

やまなみハイウェー無料化(6月)。

松本市で毒ガス・サリン事件起こる。

関西国際空港開港。

平成
7年
(1995)

6月、「ふもと旅館」松﨑郁洋氏が、組合長就任→「やまなみ太鼓」を復活させる。

「入湯手形」売り上げ累計50万枚突破。

※宿泊客数258,732名、
入込客数(推定)776,196名。

※「入湯手形」84,186枚販売。

「兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)」発生。

地下鉄サリン事件発生。

高速増殖炉「もんじゅ」で事故起こる。

平成
8年
(1996)

「ふもと旅館」松﨑郁洋氏が中心となり、人材確保推進事業開始。

ガードレールの塗装→街の景観の統一化。

旅館数23軒、収容人数2034人

※宿泊客数268,530名、
入込客数(推定)805,590名。

※「入湯手形」84,443枚販売。

芸術家・岡本太郎が死去。

SMAP の森且行がメンバーを脱退しオートレーサー転身を発表。

イギリスのチャールズ皇太子がダイアナ妃と離婚。

平成
9年
(1997)

10月、小笠原(旧姓・井)和男氏が、小国町に「戸無のそば屋」を開業。

※宿泊客数267,961名、
入込客数(推定)803,883名。

※「入湯手形」76,039枚販売。

ダイアナ元妃事故死。

消費税が3%から5%に引き上げ。

平成
10年
(1998)

5月、リクルート社「じゃらん」による読者アンケートで、1997年・九州・山口地区人気観光地ランキング「行きたい」「行ってよかった」「また行きたい」の三部門で、黒川温泉が1位を独占!

※宿泊客数269,499名、
入込客数(推定)808,497名。

※「入湯手形」72,454枚販売。

長野冬季オリンピック。

郵便番号が5桁から7桁に。

明石海峡大橋が開通。

平成
11年
(1999)

※宿泊客数294,018名、
入込客数(推定)882,054名。

※「入湯手形」78,257枚販売。

コロンビア大地震が発生。

プロレスラー・ジャイアント馬場死去。

平成
12年
(2000)

瀬の本観光ホテルが、和のイメージの旅館「湯峡の響き 優彩」に改称&改装オープン。

※宿泊客数338,484名、
入込客数(推定)1,015,452名。

※「入湯手形」107,993枚販売・・・初の年間売上げ10万枚突破!

紫式部を肖像とした二千円札が発行。

沖縄県名護で主要国首脳会議(サミット)が開催。

平成
13年
(2001)

※宿泊客数365,802名、
入込客数(推定)1,097,406名。

※「入湯手形」131,266枚販売・・・2年連続10万枚突破!

アメリカで同時多発テロ事件。

狂牛病問題が起こる。

平成
14年
(2002)

「ふもと旅館」松﨑郁洋氏が、古い旅館を買い取り「旅館こうの湯」を開業。

黒川温泉が、日本経済新聞社主催の「温泉大賞」に選出される。

旅館数24軒。

※宿泊客数396,720名、
入込客数(推定)1,190,160名。

※「入湯手形」213,612枚販売・・・初の年間売上げ20万枚突破!

日本人拉致被害者5人が北朝鮮から24年ぶりに帰国。

日韓共催のサッカーワールドカップが開催。

平成
15年
(2003)

「新明館」後藤哲也氏が、国土交通省の「観光カリスマ」に選出される。

※宿泊客数383,184名、
入込客数(推定)1,149,552名。

※「入湯手形」211,900枚販売・・・2年連続20万枚突破!

イラク戦争。

北朝鮮が核開発宣言をする。

地上デジタル放送開始。

黒川温泉での出来事周辺の出来事
平成
16年
(2004)

橋とガードレールを黒色に塗装。

※宿泊客数336,707名、
入込客数(推定)1,010,121名。

※「入湯手形」147,380枚販売・・・平成14年、15年と比べると、販売数が減った理由は、訪れる人の多さに制限をかけようと、組合が宿泊しない団体客ツアーには「入湯手形」を販売しない事にしたため。

長野県の白骨温泉で湯を乳白色に保つために入浴剤を混ぜていたことがわかり、その後も各地の温泉で同様の行為が発覚。

平成
17年
(2005)

※宿泊客数328,016名、
入込客数(推定)984,048名。

※「入湯手形」136,140枚販売。

JR福知山線脱線事故。

愛知県で愛・地球博覧会が開幕。

平成
18年
(2006)

「旅館山河」後藤健吾氏が、組合長就任。

10月、黒川温泉が、「地域ブランド」第一号として国から認可された。

※宿泊客数340,282名。

※「入湯手形」149,724枚販売。

トリノ冬季オリンピック開幕。

秋篠宮紀子さまが男子をご出産。

平成
19年
(2007)

6月、「じゃらん」九州・山口地区人気観光地ランキング「泊まりで行きたい」第1位獲得(2006年調査)(10年連続!)。

旅館数28軒。

※「入湯手形」142,232枚販売。

第1回東京マラソン。

「新潟中越沖地震」新潟・長野で震度6強の地震が発生。

平成
20年
(2008)

「じゃらん」九州・山口地区人気観光地ランキング「泊まりで行きたい」第1位獲得(2007年調査)

※「入湯手形」113,717枚販売。

四川大地震の発生。

平成
21年
(2009)
 

バラク・オバマが、第44代アメリカ合衆国大統領に就任。

平成
22年
(2010)

「じゃらん」九州・山口地区人気観光地ランキング「泊まりで行きたい」第2位獲得(2009年調査)

アフリカ大陸で初のワールドカップ、FIFAワールドカップ 南アフリカ大会が開幕。

平成
23年
(2011)

「じゃらん」九州・山口地区人気観光地ランキング「泊まりで行きたい」第1位に返り咲き(2010年調査)

東北地方太平洋沖地震が起こる。

九州新幹線鹿児島ルート(博多駅~鹿児島中央駅)全線開業。

1980年代後半、それまで周辺の宿経営者は、町でも孤高の存在だった「新明館」後藤哲也氏(昭和6年生まれ)を敬遠していた。
彼が提唱していた「都会人が求める雰囲気ある露天風呂」「自然に溶け込むような植樹」などに共感したのが、次の世代の若手経営者たち。
つまり、後藤哲也氏をアドバイザー的な存在にして、「ふもと旅館」松﨑郁洋氏(昭和28年生まれ)、「旅館山河」後藤健吾氏(昭和29年生まれ)はじめ、都会生活を経験しUターンして帰ってきた若い経営者たちが、プロデューサー的な役割を果たし、アイディアを出し合って、「ふるさとの雰囲気作り」「街全体に統一感」といった、新しい「黒川温泉」のアイデンティティを作り、日本国中が注目する人気温泉地に押し上げた。
これは、温泉地における、まさにジャパニーズドリームなのである。

平成10年(1998)に、旅行情報誌「じゃらん九州発」の人気観光地調査で第1位となって以来、由布院など強力なライバルがいるにも関わらず、ほとんど首位の座を明け渡さない。
2000年以降は、テレビ番組や各種雑誌などにも盛んに採り上げられるようになり、知名度は一躍全国区となった。
また、その評判は海外にも発信され、今日ではアジア諸国や欧米からの来湯者も多い。
現在では、全国の温泉経営者や旅館組合関係者がノウハウを見学、視察に訪れるようになり、「入湯手形」による湯めぐりは、全国の温泉地で模倣されるようになった。

一番の成功の要因は、「共生」の意識の徹底。
つまり、自分の宿だけ儲かればいいという考えではなく、街全体の隆盛、繁盛を考える事。
その最たる例が、各旅館の露天風呂を巡る「入湯手形」。
これにより、自分のところのお客も、他の宿の風呂を見てもらう事になる。
それはつまり、お客を取られる危険もあるという事。
しかし、そうならないように努力して、自分の宿のポテンシャルを上げればいいだけ。
「黒川温泉」の「共生」の意味は、"なあなあ"のゆるい関係ではなく、厳しさもあり、それでいて、分からない宿には、積極的にアドバイスも厭わない事。
簡単なようで、一番難しいテーマ。
それを実践しているから、「黒川温泉」は強い。

週末はもちろん、平日でもそれぞれの宿の浴衣を来たお客が、下駄を履いてタオルを持って歩くのが目に入る。
それを見て、人は「温泉地に来た~」と印象を深める。
そして、それに他の温泉地にはない、ある種の活気を感じ取ることができる。

「街全体が一つの宿 通りは廊下 旅館は客室」・・・いつしかこの言葉が黒川温泉のキャッチフレーズとなった。

《参考文献》

・黒川温泉「急成長」を読む/熊本日日新聞情報文化センター(熊本日日新聞)

・賑わい鳥と閑古鳥/島康二朗(明拓出版)

・黒川温泉のドン後藤哲也の再生の法則/後藤哲也(朝日新聞社)