九州のほぼ中央に阿蘇山がある。周囲約100kmに及ぶ世界最大級のカルデラ地形、そして噴煙をあげる活火山が織り成す光景は圧巻で、地球の鼓動を感じさせる迫力がある。その北東部に連なるくじゅう火山群を合わせた、熊本県から大分県にまたがる阿蘇くじゅう国立公園。九州本土最高峰の中岳を擁するこの壮大な自然の真っ只中、リゾートホテルを思わせる和の旅館、「界ASO」は2006年6月にオープンした。標高1,050メートルの瀬の本高原に、8,000坪にわたり広がるこの新しい旅荘はオープン以来、新しいスタイルの和旅館として各メディアから注目を集めてきた。ここは、別府・由布院と阿蘇を結ぶ通称「やまなみハイウェイ」の途中にひっそりと佇む。
『界』とは天と地の境を表す。ここへ辿り着く旅路、目に次々と飛び込んでくるのは車窓に広がる山と緑と空の広大無辺の大パノラマ。この、阿蘇という圧倒的な自然をもたらす天と地、まさにその境目に人の営みがある。自然と一体化したこの宿に、到着すると静かに出迎えてくれる笹川支配
人をはじめとするスタッフの姿勢には、自ずとそう思えてくるものがある。
自然を前にして、華美に飾り立てることなど不要なのだろう。エントランスロビーのある本館は、直線のみで構成される、天井の高い木造建築。黒く塗装されたベイマツの梁や壁、積み上げられた石の重厚感、そして鈍い光沢を発するウォールナッツの床、これら天然素材による人工空間は、全面に大きく取られた窓から望む、阿蘇の眺望と目の前の木々を映えて見せる額縁のようである。
この本館の内部は、エントランスロビーから一段下がった左右に広がる。左手には重厚な石組みの壁と暖炉を囲むようにして、ソファが配置されたラウンジと、世界文学全集やルイス・フロイスの日本史、そして実際にここに宿泊もしたという村上龍の作品などが並ぶ小さなライブラリー、宿で使用している器やキーホルダー、リネン製品などオリジナルグッズが並べられているショップがある。ここに置かれる、天才技術者・寺垣武氏が開発した特注の波動式スピーカーから、やわらかく澄んだ音楽が流れる。高い天井に響き渡るその音は清々しく、生演奏を聞いているかのよう。右手には、眺望を取り込んだ、ゆったりとした空間のダイニング。食事はここでいただくことになる。
ラウンジでの呈茶に喉を潤わし、窓の外、張り出すように設けられた月見台で眺望や、くぬぎや栗、ミヤマツツジなどの草木を楽しむなどする間に、本館から電動カートで荷物は先に運ばれる。本館から一本の径が下り坂に伸び、左右に枝分かれしていく客室はすべて、森に隠れるように点在する12の離れ棟。傾斜地に点在するこれらの棟は、高所に位置する本館月見台から見渡すと、木々の間から黒い屋根が光る様子が見られる。全棟に源泉かけ流しの露天風呂が設けられており、木々のざわめき、小鳥のさえずりの中、静かに湯煙をあげる。ここでは俗世間を忘れ、木漏れ日の中くつろぎの時間を静かに過ごすことができるのだ。AとBの2タイプある客室も本館同様、天井が高く開放感があり、シンプルかつモダンなデザイン、天然素材の穏やかな色調で統一されている。国立公園の森の中という立地を最大限に活かした設計は、自然と対峙した人間のできうる、最高の贅沢といえよう。
Aタイプ棟は8つ。露天風呂とテラスを除いて63uもの広さ。大きなソファとTVが置かれたチーク材張りのリビングルームとベッドルーム、浴室からなる。ベッドルームは壁で仕切られたタイプのものと、段差でゆるやかに仕切られたオープン型のものと2種類。収容人数は1〜2人。
そしてより広く、78uあるBタイプ棟は4つ。リビングルームと、壁で仕切られたベッドルームと浴室という構成と設備、調度品はほぼ同じだが、こちらにはさらに8帖の和室が設けられており、より和旅館としての佇まいを感じさせるものである。収容人数は最大5人。
滞在において一番長く時間を過ごす客室には、選びに選び抜いた、最新かつ上質の設備や調度品が取り入れられている。32インチの大型液晶TVには、DENON製のホームシアターシステムが接続されている。このシステムは単にDVDを観賞するだけでなく、自分のiPODを接続することができる。また、持っていない方の為に、フロントにてジャンル別に編集されたiPod nanoを貸出しているので、好みの音楽をここで聴きながら寛ぐことができる。映画DVDも約30タイトル、音楽CDも多く揃えられており、こちらもライブラリーの蔵書と同様、無料にてレンタルすることができる。
肌に直接触れるタオルや寝具へのこだわりも徹底している。バスローブ・タオル類は、愛媛県今治市、七福タオル製の「界ASO」オリジナル品。マイクロファイバー混の糸を使用し、柔らかで吸収性と速乾性に優れている。寝具もオリジナル品、東京銀座のショップ「CROSSENSE」でセレクトした上質のリネン素材と羽毛布団を使用している。インド超長綿100%のしっとりとした肌触りが特徴。これら客室に用意されている品々、フロアランプやティッシュボックス、茶筒やくつべらに至るまでがオリジナル品。本館のショップで購入することもできる。
冷蔵庫内のドリンクは全てフリー。ビール、烏龍茶、ジュース、スポーツドリンクなどの他にトニックウォーター、炭酸水が入れられ、横の棚にはウィスキー、ブランデー、ウォッカ、ジン、バーボンのミニチュアボトルが置かれる。つまり、部屋でジントニックなどのカクテルを作って自由に飲むことができるのだ。また、ボトルに用意されたミネラルウォーターが美味しい。これは敷地内の井戸より採取した阿蘇の伏流水で、常温のものと冷蔵庫で冷やされたものとが備えられている。口当たりがまろやかでやわらかく自然の味が生きているため、ここでの調理、炊飯にも使用されている。
浴室はジャグジー風呂とシャワー、そしてシンクが2基設けられている。アメニティーもイギリス「REN」のもので統一。上記のタオルが人数分用意されているのに加え、棚の中に予備も用意される。浴槽の横に洗い場があり、同時にこの洗い場が露天風呂への通路にもなっている。小さな段差があることと浴室は石張り、そして手すりも設けられてはいないため、暗い時などには若干の注意をオススメする。
自然と向き合うことを最大の癒しととらえるこのお宿だが、人の手によるエステも充実したサービスを提供する。これは、バリのインドネシア政府公認エステ学校ABIAN SPA AESTHETIC ACADEMYでトレーニングを積み、資格を取得したスタッフによるもの。彼女たちはスパ専任ではなく、普段はフロントに立ち、客室案内をするというのには少々驚くとともに、この宿に働くスタッフ全体のレベルの高さを感じた。
コースは「風わたる萬里」と「トラディショナル」が用意されている。「風わたる萬里」コースは、馬油(マーユ/バーユ)を使ったオリジナルのオイルマッサージ。熊本に伝わる民間療法として親しまれている馬油と、バリ式マッサージのゆったりとした、包み込まれるような施術を組み合わせたもの。使用される馬油は、トリートメント用に極限まで精製した超精製上油。「トラディショナル」コースはバリ島伝承の伝統的なオイルマッサージ。力強さとソフトタッチの絶妙なバランスを持ち、筋肉のコリや張りをほぐしながらもその香りや、ゆったりとした施術の流れによるリラグゼーション効果がある。本館の1階にあるトリートメントルームは2部屋しかないため、希望の方は事前に予約することをおすすめする。なおオプションで、地元九重の「泉水ローズガーデン」より産地直送で届いたバラをふんだんに使用したローズバスを楽しむことができる。こちらは事前予約が必須となる。
食事は本館の調理場に隣接したダイニングでいただく。ゆるやかな坂道を登っていくので、希望とあらばフロントに連絡をして、カートで迎えに来てもらうこともできる。大きな竈と炭焼き場が鎮座するダイニングは窓に面したテーブル席、カウンター席と掘りごたつ式の個室が用意されている。暖色系の灯りに照らされていただく夕餉は、ここでの何よりもの思い出となることだろう。スタート時間は、17:30〜20:30。なお、ダイニング内は禁煙。喫煙の場合には暖炉脇のラウンジか、建物の外、月見台などに出ることになる。
九州各地の美味しい素材を使った夕食は、若き岩下料理長自らの足で探した厳選の素材を使用。大胆かつ繊細に盛り付けられた品々からは、食の宝庫でもある九州の奥の深さを感じさせるものがある。食事の進行にあわせ、実にタイミングよく出される取材時(2008年3月)の献立を以下紹介する。
先付けは四季を通じて温かいものが出される。胃を温めることで活性化させ、食事をより楽しめるようにとの配慮からだ。この日は旬蕪の雪見蒸し。名残雪をイメージさせる、すったカブに卵白と山芋を加えたものを載せた。野菜は全て熊本県菊池産の減農薬野菜を使用している。
八寸盛り合わせには、国産筍の木の芽焼、長崎産のアン肝、芹とナマコの白和えトンブリのせ、なごり雪をイメージした甘鯛の白雪焼、そしてフキノトウの開花揚げという品々が、早春の草花のように盛り付けられている。あしらわれた椿葉や梅枝が春の情緒を匂わせる。
お造りは、佐賀関であげられた伊佐木(イサキ)の薄づくりと、湯引きしたものとの二種類の食感を楽しめる。冬から春は脂がのった美味しい季節。濃い口の生醤油と、甘口のたまり醤油との2種類の味わいも楽しめる。
メインの焼物は肉と魚の2種類から選ぶ。壱岐牛の炭火焼と原木しいたけ、アスパラガス、いんげん、そら豆、たまねぎなど旬の野菜5種類に、熟成柚子胡椒とごま塩、焦がし醤油につけていただく。岩下料理長が「九州で一番美味しい」と太鼓判を押す壱岐牛は、海風を受けたミネラル豊富な草を食べてのんびりと育った、離島ならではの逸品で、細かく入ったサシが特徴。脂も強いので、焦がし醤油で食べることで味を引き立たせる。こちらは通年出されるメニュー。
もうひとつの焼物は、沖縄の与那国港から直送されたカジキ鮪のステーキ。こちらにも5種類の野菜が添えられる。鉄板でじゅうじゅう煙をあげて出されるカジキは血臭くなく、鮪とはまったく違った食べやすさがある。それ自体の味が淡白なため、特製のゴマたれをつけていただく。こちらは、季節によってアワビなどが出される。
替鉢としては、寿司盛り二種。菊池産の春菊の巻き寿司と、八女産の博多しいたけの握り寿司。赤柚子胡椒と黄菊が添えられる。さっぱりとした口当たりながら、しっかりとした味わい。出されるネタは季節によるが、いずれも野菜をベースに考えられたメニューとなるそうだ。
揚物には、天草の車海老の東寺揚げ。湯葉を巻いて揚げることで、海老の旨味を閉じ込め、かつ風味を損なわない。ヤーコン、エリンギ、そしてししとうとピーマンをかけあわせた満願寺ピーマン揚げが添えられる。
くずし豆腐の河豚雪見鍋は、フグの骨からとった出汁に、大根おろしやつぶした豆腐を入れて雪見の雰囲気を醸し出す鍋に河豚の皮をしゃぶしゃぶのようにして入れ、ポン酢につけていただく。大根おろしを入れることでフグ出汁の臭みが消え、水菜、千切りネギ、そして河豚の身という具材が入る。鍋にはフグ本来の旨味が出ているので、味の強いポン酢は使わず、汁ごといただきたい。河豚の皮はコラーゲンを含有し美肌効果が得られるといわれるもので、河豚皮は鍋出汁にくぐらせ。
締めのお食事も選ぶことができる。ひとつは鍋の出汁を活用してできる雑炊。もうひとつは、ダシと絡み合った絶妙な味わいの、香ばしい焼おにぎり茶漬け。どちらも柔らかい口当たりが、満たされた腹にもすんなりと入る。
デザートも豆乳チーズケーキと桜ケーキ、抹茶アイスと白玉という2種類から選べる。豆乳は、豆腐屋で朝一番搾りのものを使用。例えば旬の新茶を使用するなど、どちらの品も季節を感じさせるものであった。苺は熊本産の「ひのしずく」。
現在は仕入れに頼っている野菜類だが、「ゆくゆくは敷地内にある自家菜園から収穫したものも使用し献立を作るのが目標です」と岩下料理長は語る。標高など難しい環境にあるため、今までのところ残念ながら収穫状況は芳しくないとのこと。それでも既にニンニクの栽培には成功するなど、これからも研究を重ねていくそう。ちなみに今年(2008年)は、トマト、ナス、スイカなどの栽培を始めるという。
満たされた腹を抱えて部屋に戻ろうとすると、スタッフのさりげない一言とともに、籠に入れられた夜食が手渡される。この日は手軽につまんで食べられるいなり寿司。このまま部屋に戻るのもよし、バーでカクテルを作ってもらい、ラウンジで煙草でもふかしながら極上のスピーカーに流れる音楽に耳を済ませるものよいだろう。「界ASO」での夜は静かに更ける。
朝食のスタートは7:30から10:00、のんびりとできるのは嬉しい。身体と胃袋を温める温菜スープではじめる。スープには菊池の松永農場直送の手作りベーコンと、セロリ、霜降り白菜、人参が入れられている。ベーコンは阿蘇の伏流水で塩抜きしたもので、完成まで2・3週間かけたものだそう。他にも、お腹に優しい木綿豆腐を加工して揚げた、自家製がんもどき風の揚げだし、佐賀関直送のブリ照り焼き、九重高原産の卵を使用したダシ巻き卵、熊本産の旬わけぎ酢味噌かけ、炙り柚子明太子、海苔佃煮、ちりめん山椒というラインナップ。ご飯は水はけの良い砂田で栽培された七城米。これは1996年度・1998年度の全国お米食味会で日本一の称号を受けたもの。九州仕立てのあわせ味噌汁には、地元産豆腐や南関あげ、原木しいたけが入れられている。食後には沖縄のパイナップル、佐賀産の「せとか」、熊本産キウイがデザートに並ぶ。量は控えめだが、産地の厳選など実に入念に仕込まれた朝食だ。
「界ASO」を運営する株式会社オーバルは、半導体の製造引き受けや人材派遣を営む熊本の株式会社ヒューマンが立ち上げた新規企業である。他業種からの参入ということになるが、ことの経緯はこうである。物質的に豊かになった日本社会は、社会の成熟段階に入った。人々が自らの個性や価値観を大切にするようになった中で、サービス産業の重要性はますます増していく。日本の伝統でもあるサービス=「おもてなし」が凝縮するのは和旅館であり、実際に海外のリゾートホテルのスタッフが参考にしているほどでもある。この旅館という場をサービス産業向けの「トータルアウトソーシング」の場としてとらえ、そこで培うノウハウや人材を活かす取り組みが「界ASO」を舞台に、旅館の運営と同時に行われているのである。
それだけに、この宿にはプロフェッショナルが集う。上質のおもてなしを率いるのは、これまで千鳥ヶ淵にあったフェヤーモントホテルや、横浜グランドインターコンチネンタルホテルなど、数々のホテルで経験を積んだ笹川支配人。「大きく宣伝をすることもなく静かに立ち上がったこともあり、それが逆に余裕ある勉強期間になりました」、と彼は言う。オープンして2年近く経ったこの取材時、働くスタッフはみなつかず離れず客との適度な距離をわきまえ、自信を持って接客にあたっているように感じられた。将来的には、この旅館が日本のサービスの“モデル”となっていくのだろう。
この瀬の本高原は、ココ・ヴィラージュ(COCO Village)と呼ばれる新開発リゾート地域にあたる。国立公園内に位置するため厳しい規制があり、自然に負荷のかからないかたちでの開発が求められた。「21世紀を代表する旅館の創造」をコンセプトに、トータルディレクションに中村悌二氏、建築に佐藤一郎氏、ロゴデザイン・コピーライティングに湊昭良氏、小物・アートスタイリングに後藤陽次郎氏、グラフィックデザインに尾崎肇之輔氏、ユニフォーム衣装デザインにカワイヨシロウ氏、照明デザインに中前公晴氏というそれぞれの分野の第一線で活躍するプロがプロジェクトメンバーに迎えられた。こうして、自然との共生をテーマに築き上げられた、新しい和風リゾート旅館が計画されたのである。
価格帯のみを鑑みればここは高級旅館の範疇に属する。また、「離れ」、「客室露天」、「和会席」など、この温泉宿を構成するキーワードをただ列挙することで沸いてくるイメージがあるとすれば、それはきっとこのお宿の提供するそれとは異なるものとなるだろう。それのみを持って実際に訪れたら、予想外の驚き、人によっては失望すら覚える可能性がある。「高級」から連想される華美さ・豪華さには乏しく、着物の女将もいなければ、苔生す日本庭園もない。かわりにここにあるのは、由布院のような無国籍なセンスでもなく、黒川温泉のような日本の田舎を具現化する土臭さでもない、機能や設備における最新を持ち込んだ都会的な洗練である。そして、日本の旅館で是とされてきた、控え目でさりげない、真摯なおもてなしの心。
飽食のこの時代、自分にとって心地よいもののみを取捨選択する自由は、同時に余剰を捨て去る覚悟を現代人につきつけてもいるのだろう。現代人にとって最高の贅沢=自然と向き合う機会と空間を設けるという、見えづらいところに潜む本当の意味での上質さが満ちているのである。
このお宿をカテゴライズするのは非常に難しい。もし強引に表現するとすれば、都会のエッセンスとラグジュアリー、そして温泉リゾートをミックスしたニュータイプの旅館、なのかもしれない。他にも「界ASO」を形容する言葉は数多くあろう。だが、公式ホームページ上に見つけたこの言葉が、このお宿を最もよく表しているように思える。
「ゆるやかに、何も考えずに居てください。私共が考えます。」
都会の喧騒に疲れたら、九州の隠れ宿、「界ASO」で癒しを得よう。ここには唯一無二の雄大な自然、そして日本旅館の伝統である「粋」と「もてなし」を受け継いだスタッフがいる。 (J/eb)