いわずと知れた、日本一の湯量を誇る温泉地、別府。八つのエリアに分かれた温泉地は、別府八湯と呼ばれ、別府温泉郷を構成する。ここには約2,800もの源泉があり、その数は日本の総源泉数の1割に達するほど。湧出量も圧倒的に多く、豊富なお湯は高温であることが特徴だ。また泉質も豊富で、世界にある11種類の泉質のうち放射能(ラジウム)泉をのぞくすべてがこの別府にある。同時に人口14万人を抱える都市でもある別府は、海と山とお湯、これらリゾート地としての要素を兼ね備えることから、大型ホテルと一般住宅、観光地と生活地帯とが混在する。そんななか至る所から湯煙が立ち上るという、実に珍しい光景が広がる地である。
別府八湯のひとつ、観海寺温泉は中でももっともクリアな泉質といわれている。海抜150メートルに位置することから別府でも随一の眺望を誇り、鎌倉時代に発見されて以来、旧くから地元や近隣から訪れる人々の湯治場として知られてきた。昭和 6年(1931年)の大火災後復興し、観光温泉場として発展、現在は近代的な大型リゾートホテルが建ち並ぶエリアとなっている。
街道を折れ、閑静な住宅街を抜ける坂道を登る。道路脇に組まれたやぐらから、もうもうと湯煙をあげる「眺望の宿 しおり」は、別府市街を一望する丘の上に建つ。その宿名のとおり、ここは眺望が自慢。取材時は残念ながら春霞がけむり、別府市街のみを一望できるだけであったが、秋から冬にかけての空気が澄み渡る時期には、遠く四国まで見晴るかすことができるという。
行き来する人々を静かに見守るケヤキの大木の下を通り館内に入ると、その眺望を取り込んだ開放的なロビーに至る。2005年にリニューアルオープンされた際には3階建ての建物に加え、庭園には新たに足湯が設けられた。清潔感ある館内はのんびりと寛ぐにはまたとない空間で、2つの貸切風呂が後に増設された。つまり温泉宿として、より個人客にターゲットを絞ったおもてなしを展開することとなったわけである。客室数も15と、大型ホテルの建ち並ぶこの観海寺温泉エリアにあって、この“こぢんまり感”は逆に際立ったものがある。
パブリックの施設も多くはない。上述のロビーと隣接のレストラン、窓の外に広がる庭園と、庭園内に設けられたせせらぎのような足湯、男女別大浴場と貸切風呂2つがあるのみで、カラオケなどの娯楽施設はない。他の別府にある温泉旅館の多くがそうなように、団体やグループで訪れ、夜まで騒ぎ倒すスタイルの旅行地というイメージがつきまとうものだが、ここにはそれはない。閑静な住宅街の中のこぢんまりとした佇まいさながら、ここでは眺望と上質のお湯、そして創作懐石料理をじっくりと堪能するのにふさわしい大人の雰囲気漂う宿なのである。
15ある客室のうち、海側に眺望が開けるのは8室。これらはいずれも和室で、大きく取られた窓の正面に見る別府市街と別府湾の眺めはやはり格別である。山側に面する6室は1室のみツインベッドの洋室だが、他5室はみな和室。どこも清潔感あるさっぱりとした客室で、トイレと洗面は全室についている。畳敷きに床の間が設えられたこの空間は、日本人が慣れ親しんだくつろぎの空間そのもの。内湯も露天風呂も客室にはないので、どの宿泊客も1階にある大浴場ないし、貸切風呂を利用する事になる。なお、お茶請け菓子には別府の銘菓、「ざびえる」が出された。
眺望が第一の自慢であるこのお宿だが、それと同じく誇れるのがそのお湯。駐車場横、敷地内で自噴する源泉は、肌に滑らかな、ヌルヌル感あるアルカリ性。しっとりとした肌触りのお湯にじっくり浸かれば、湯上り後も身体が冷えづらく、長時間にわたりホカホカ感が持続する。源泉が98度と高温のため、敷地内の冷却装置を通して湯口に供給されているが、夏季など気温の高い時期には加水することで温度調節をしている。より上質の、濃厚な源泉を堪能したいなら、気温の低い時期のほうがいいのかもしれない。大浴場も貸切風呂も内湯と露天風呂が併置されており、またサウナ室も完備しているので、一度の入浴で二度三度楽しめるのは嬉しい。
上質のお湯を味わったら、部屋で出される食事を楽しみたい。2008年に入ってから料理長になった若き料理人、釘宮さんによる自由なアイデアとセンスで練りこまれた品々は、総じて盛り付けが華やか。見た目にも楽しめる取材時(2008年3月)の献立を紹介する。
食前酒には春を感じさせる梅酒。先付けの百合根豆腐は前日までに練り上げて、一日寝かすことで味がおだやかになる。当日再度ふかして、やわらかく仕立て上げられたものだ。
前菜は春をイメージした季節の盛り込み。車エビ芝煮、胡桃松風、焼き竹の子、鴨のハーブ蒸しに赤ワインで煮込んだミニ玉ネギ(ペコロス)、練った後に再度焼きなおした味噌を載せた里芋田楽がカゴに盛り付けられている。
蛤真丈、しめじ、香り柚子の吸い物は、塩のみの味付け。これにより蛤のもつ旨みが全面に引き出されている。
この日のお造りはマグロ、エビ、イカ、カンパチの四種盛り。大分市場から日々、鮮度の高いものを仕入れてくる。
煮物は、せせりの部位を使用した柔らかい肉のつみれを、大根で年輪のようにくるんだもの。大分名産の柚子胡椒でピリッとした味わいを加えている。添えられた竹の子、蕨、花百合根から春を連想。特に卵黄を散りばめたことで菜の花のような華やかさを醸し出しているのは見逃せない。
鰈のジャガイモ包みに、トマト風味のカポナータがからむ、さっぱりとした味わいが印象的な焼物の一品。添えられた紫芋が味のアクセントになっている。
ここでメイン、ご当地名産の豊後牛の鉄板焼きがここで登場する。豊後牛はサシが多く入っておりやわらかく、しかしこってりとしすぎない味わいが特徴。海外から取り寄せられた岩塩が添えられているので、ここではシンプルに味わうのがよいだろう。おろしポン酢も用意されているのでお好みで使い分けるのも良い。茄子、青唐、南瓜が添えられる。
口の中に濃厚な味が広がったところで、さっぱりとした蒸し物を。低温でじっくりと蒸し上げることで、火の通りが均一に行き渡り、ムラなく柔らかくできあがった茶碗蒸し。お餅、銀杏、百合根が入れられており、上にかけられた蟹の餡とからみあう、薄味ながら奥行きの深い味わいが印象的な一品である。
ここで再び豊後牛が登場する。大分産のステーキ椎茸がネタのお寿司、豊後牛のモモ肉で巻かれている。酢飯としいたけのさっぱり感に牛の旨みが溶け合い、満たされた腹にもすんなりと入る。
御食事には大分産のコシヒカリに、別府で古くから伝わる味噌屋から仕入れている赤味噌の赤出汁。カツオと味噌のみでとった出汁が、舌に柔らかい、かつ濃厚な味わいをもたらしている。
食後の口をさっぱりとしてくれるヨーグルトのムース黒糖ゼリー添えをいただいて、至福のときもひと段落。
腹が満たされ、落ち着いたら、寝る前にまたお湯に浸かるのもいいだろう。暖かい季節であれば、庭園のせせらぎを流れる温泉で足を浸け、目の前に広がる別府市街の夜景を見る楽しみもある。芯から温まった身体で床につこう。
朝食は1階ロビーに隣接するレストランでいただく。定番メニューの、ご飯に味噌汁、豊後アジの開き、ダシ巻き卵、ひじき、明太子、ししゃも甘露煮、烏賊の塩辛、コンニャク・ニンジン・ゴボウ・レンコンの筑前煮が並んだ。
このお宿は、別府では非常に珍しい部類にあるといえる。団体旅行向けの画一的なサービス展開をする、大衆化された旅館やホテルが多数を占めるこの別府の温泉宿にあって、癒しとはなにかを真剣に考え、眺めとお湯と料理という、宿本来の姿に立ち返ったサービスを提供しているのである。たしかに飾りは少なく、さっぱりとした印象が強い。着物の女将はおらず、かわりにスーツを着た山首支配人が真摯に接客にあたる。さりげなく控えめな演出からは、大きく心に残る温泉宿ということは難しいかもしれない。だが、住宅街という立地、飾らぬその居心地、そして部屋食ながらこの価格帯で提供されるという魅力から、「旅行」という仰々しいイベントではなく生活の延長線上、気軽に立ち寄れる隠れ家的な要素が強いように思える。遠方からよりも、県内近隣からのお客が多いのも、そこに要因があるのだろう。より地元の人に愛されるこういう宿の出現、そして増加は、街に流れる前述のイメージを払拭するきっかけとなることだろう。
運営は食肉卸し業の株式会社まるひで傘下の株式会社秀観。由布院の「秀峰館」をはじめ、「旅亭 田乃倉」、「山灯館」など6旅館の運営を同時に手がけており、湯布院での宿経営の実績を買われ、銀行の保養所であったこの建物をまるごと引き受ける形で、別府の温泉宿としての再スタートを切ったのがここ、「しおり」なのだ。他業種からの参入ということもあり、成長過程にある宿であることは一目に見て取れる。だが、この宿を支えるスタッフは平均して若く、モチベーションも高い。そんな彼らが手探りで宿作りをすすめてきたからこそ、接客はじめ、料理の献立などにも表れる丁寧さが感じられるのである。公式のホームページがいい例である。簡素で飾りつけも少ないページだが、別府のこと、お湯のことが丁寧に描き出されているところに、このお宿の姿勢が現れているような気がする。
リニューアルを施し、より綺麗になった館内には、エステなど女性が喜ぶサービスの拡充を期待したい。なによりもこの宿には、日本全国、他のどの温泉地のお宿も羨ましがる湯量とキメ細やかな泉質を持つ「お湯」という替えがたい財産がある。これを根幹とし、この素晴らしい「眺望」だけではない、スタッフ全員によって創りあげる「個性」という枝葉が芽生えていくことで、今後大化けする可能性がある宿ということができるだろう。(J/eb)