「離れの旅館 花心」は、2004年(平成16年)の創業以来、順調に営業している。
この宿がある小田(おた)温泉は、あの人気温泉地、黒川温泉の近くにあり、その周辺には、やはり全国区の人気を誇る由布院温泉もクルマで1時間圏内にある。
その他、小さな温泉地が点在し、言わば温泉宿の激戦区でもある。
そんな環境で、毎年の如く、客室稼働率を高いままキープし、じゃらんネットのクチコミの評価も高く、実際に人気宿ひしめくこの地区で、エリア売上げも常にトップを維持しているのは凄い。
その人気宿を誕生させたのは、女性社長の石川由香さん(昭和47年生まれ)。
彼女は旅館の跡取り娘でもない。
いわばズブの素人から出発したわけだが、その彼女のプロフィールをここでご紹介しよう。
父親は、大分県竹田市で建築・土木の会社を経営している。
3人兄妹の真ん中だった由香さんは、たっぷりの愛情を受けて育った。
市内の進学校を卒業したが、由香さんは大学には行かず、18歳で看護学校に入学する。
この頃は歯医者になるという夢があったそうだが、実際東京の医大に入学するとなると、卒業するまでに莫大な学費がかかってしまう。
両親とも話し合ったが、最終的には、由香さん自身で看護学校を選んだという。

しかも、由香さんの入学した八幡製鉄所病院看護専門学校は、卒業までの学費が無料だった。
どんな病院でも対応できるよう、コースは外科を選んだ。
この頃より自立心が強く、自分の力で未来を切り開く素質があったようだ。
卒業後は正看護婦として、自動的に系列の病院で働くこととなった。21歳だった。
3年後、24歳になっていた由香さんは結婚を機に病院を退職。
その後は、ご主人(医師)の転勤に合わせて、静岡県藤枝市に居を移す。
この時期に長男を出産する。
翌年は、東京へ転勤。
由香さんは出産後半年で、息子を託児所にあずけ、お給料のいい夜のお店で働きだす。
実はこの頃から、おぼろげながら将来旅館経営に乗り出す事を決意していた。
その資金作りを始めたのだ。
27歳の頃、またもご主人の転勤があり、福岡県の久留米市へ。
この時は、彼女も3年ほど病院で働いていた。
30歳になろうかという時、由香さんは夫とともに自分の実家に戻り、長女を出産する。
夫は病院を開業し、由香さんは両親の経営していた会社の手伝いを始める。
この頃、熊本県の黒川温泉が空前のブームとなっていた。
間近でそれを見ていた由香さんは、いよいよ夢を現実化しようと動き出した。
そして、「自分の宿を一から作りたい」と、若い頃より一生懸命働いて蓄えた貯金をもとに、土地探しを始めた。
ところが、1歳の赤ちゃんを連れて、軽自動車に乗ってきた由香さんに対し、「あんたに売れるような土地はないよ」と、冷たい反応を返す不動産屋がほとんどだったという。
その後、黒川温泉から少し離れた杉林だらけの土地を見つけ、何とか契約にこぎつける。
当時1800坪の敷地を2000万円で購入したのだ。しかもキャッシュで。
21歳から贅沢をせず、こつこつ貯めたお金だった。
「売ってくれる土地はここしかなかった」と石川社長は言うが、自然に囲まれ、雄大な九重連山を望むロケーションはなかなかのもの。
一応、小田温泉に所属はしたが、他の旅館が集まるエリアから2qほど離れているため、誰も買い手が付かなかったというのが事実だったのだろう。
しかし、開業した後は、その立地が逆に大自然の中の一軒宿として注目を浴びるのだから世の中面白い。
ところが、悪夢が彼女を襲う。
建物のローン(約1億円)も銀行からなんとか取り付け、急ピッチで工事を始めたが、6割ほど工事が進んだところで、依頼していた建築会社が倒産してしまったのだ。
ほとんど建設費(約9000万円)をその会社に払い終えていたにも関わらず、銀行に約5000万円の追加融資を頼むことになってしまう。
このように、様々な紆余曲折を経て、2004年6月、「離れの旅館 花心」は開業した。
31歳で夢を実現したのだ。
周りに民家も見当たらない、自然そのままの閑静な環境を考え、客室を離れにすることで、さらにその魅力を増大させることにした。
効能豊かな自家源泉にも恵まれ、全室を温泉風呂付きにできる湯量もあった。
スタートしてすぐはお客が少なかったが、じわじわとクチコミが広がり、数ヵ月後には、ほぼ満室状態が続く事になった。
そうなると、周辺関係者は、石川由香さんを社長として見るようになった。
金融機関や不動産の業者も、経営破たんした宿や、売りに出している施設を次々と彼女に紹介するようになったのだ。
「花心」をオープンしてなんと翌年2005年(平成17年)には、熊本県・山川温泉の旅館を買収。
リニューアルして「旅館 四つ葉」として開業させた。
2008年(平成20年)にも、大分県の別府・亀川温泉の旅館を買い取り、「旅館 和み月」として開業。
リーマン・ショック後の世界同時不況の中にも関わらず、2009年(平成21年)にも、大分県・由布院の企業の保養所だったところを旅館に改装し、「美星(きらら)」としてオープンさせたのだ。
こちら「花心グループ」4軒の共通点は、すべて客室に温泉風呂があること。
それでいて、リーズナブルな宿泊料金が特徴なのだ。
「花心」の公式HPにある宿泊プランを見ても、やはりお得感は強い。
「平日限定・内湯付プラン」であれば、13,000円〜(2名1室での1名様料金)。かけ流しの温泉風呂がある離れで、このお値段はお値打ちだろう。
しかも、お1人様1,050円追加で、チェックアウトは12:00(通常10:00)になるプランもある。
一番のオススメは、「世界三大グルメ」。
絶品の三大珍味(キャビア・フォアグラ・トリュフ)をすべていただくプランだが、2名1室での1名様料金は、19,000円〜。
しかも、ご紹介した料金は基本料金なので、時期によってはもっとリーズナブルに泊まれるようだ。
また、宿の公式HPからの直接ネット予約特典として、「お肌ツルツル三点セット」が用意されている。
こちらの3点は、まゆだま、炭石けん、コエンザイムQ10フェイシャルマスクと、美肌を作るアイテムだ。
“まゆだま”は、タンパク質成分であるセシリンが含まれており、肌の潤いを保つ。
また、非常に粗いシルク繊維で、毛穴に詰まった古い角質を除去してくれる。温泉にじっくり浸した後に、目じりや鼻などをマッサージしながら使用するといいだろう。
一代で「花心グループ」を築き上げた石川由香社長は、今も4つの宿を駆け回りながら、自家農園の管理・収穫も行っている。
この農園は、元々は彼女のお母さんが作ったもの。
当初は、娘が宿を経営することに反対していたらしいが、2軒目の「四つ葉」が出来るころには、少しでも役に立てればと、トマトときゅうりから細々と始めたのだ。
今では農園も拡大し50〜60種類の野菜や、自家製米も育てている。
石川社長は、今も夫の開業した病院で、看護婦として働くこともあるという。
とにかく体を使って仕事をするのが好きな方のようだ。
現在の「花心」は、年配のご夫婦のリピーターが多いというが、これからはもっと、子ども連れのファミリーや、若いカップルにも人気が出てきそう。
2010年で38歳になった彼女は、さらにあと2〜3軒の宿を増やしたいという気持を持っている。
実際5軒目の宿は計画中。すでに土地を購入済みで、具体的なイメージも出来ているとのこと。
「花心」以来、新築でゼロから作りあげるとあって、意気込みも強い。
「40歳になるまでは猪突猛進で宿経営をしていきたい」と語る。
バイタリティあふれる女性オーナーの姿は、部長の鶴田さんや宮谷料理長、そして若いスタッフ全員に、いい影響を及ぼしていることは間違いないだろう。
宿泊料金が1万円半ば前後の旅館で、これほどのポテンシャルを持つ温泉旅館がどれだけあるだろうか?
九州、特に人気温泉宿が密集するこのエリアだからこその、この宿の充実ぶりなのかもしれない。
東京、大阪、名古屋などの大都市圏に住む温泉宿ファンにとっては、羨ましいに違いない。
源泉100%かけ流しの温泉、しかも良質。
全室が独立した離れのコテージに、客室露天風呂や温泉内湯。
大自然の中の一軒宿。
サプライズ満載の創作料理。
ペットと遊べる環境と設備。
・・・この宿の魅力を語るキーワードは数多い。
しかしながら、いきなり人気旅館になった反動か、面白くない同業者がいるのも確か。
周辺の温泉宿が、梅雨時や真冬の時期などお客が入らない時でも、常に高い客室稼働率を維持しているのだから目立ってしょうがない。
でもそれは、人気旅館の宿命。
この宿に限らず、超が付くほどの人気旅館は、周辺の温泉宿が悪い噂を流そうとする。
これも「人気税」と思って、石川社長も受け流しているのだろう。
最終的にはその宿の判断、評価をするのは消費者。
エリア随一のリピーター率を誇っているのもその証となっている。

人気旅館になった理由はいくつかあるだろうが、それは石川社長の庶民的な目線にあるような気がする。
長年、温泉宿を経営している宿には、しきたりや、その宿ならではのルールがある。
それは、ある面では宿経営には必要不可欠なところもあるが、時代にそぐわない点も出てくるものだ。
石川社長は、会社社長の娘さんといっても、子どもの頃から贅沢はせず、高校卒業時もお金がかかるからと看護学校に行くほどの人。
旅館も、一般人の目線で、こんな宿があったら泊まってみたい・・・と自分で思えなければ、旅館経営など失敗すると思っていた。
その時代、その消費トレンドを素早く察知して、今求められているのは何かを分かる方なのだろう。
「私には高級旅館の経営は無理」という彼女が、造り上げた旅館は、すべてヒットしているのは偶然でもなんでもないのだ。
石川社長には、女性社長にありがちな派手さや、周りを押しのけてまで目立とうとする姿勢を全く感じられない。
今でも大きな会社のOLさんにも見えるぐらいだ。
しかし、その彼女に、周辺の宿はことごとく業績に差を広げられている。
彼女の強みは、別な見方をすると、一般的な温泉旅館の社長が持つ特有の“プライド”を持たない事。
この場合の“プライド”を持たないという意味は、常に臨機応変に宿を変化させられるという事。
繁盛旅館にしなければ、理想の宿作りなど出来やしない。
理想の宿を作るのは、たくさんのお客さんの支持を頂かなければならない。・・・と、老舗宿の男性社長より腹をくくっているようにも見える。
ある意味、宿の体裁など気にしない。
それよりも、どれだけのお客が自分の宿で喜んでいただけるかを考えているからこその、今の結果になっているような気がする。
そして、石川社長は、女性目線という武器も持っている。
彼女ならではの感性は、これからも旅館経営に非常に貢献していくだろう。
彼女の夢の到達点、理想の旅館像は、まだ分からないが、是非見てみたいものだ。
いずれにせよ、この「離れの旅館 花心」が彼女の出発点であり、原点。
ぜひ、彼女の造り上げた「夢の原点」に泊まって、少しでも何かを感じて欲しい。
ここは間違いなく、2人のお子さんを持つ主婦が造り上げた温泉旅館なのだ。(J)