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004 長尾 景仲 006 太田 道灌
父の遺志を継ぎ、室町政権に戦いを挑んだ反骨の初代・古河公方 005
足利 成氏
Ashikaga Shigeuji
身分 室町幕府 第5代鎌倉公方/初代古河公方
在任:宝徳元年(1449)~延徳元年(1489年)
改名 永寿王丸or万寿王丸(幼名)→成氏 別名 関東戦国時代のきっかけを作った張本人
誕生
永享10年(1438)or
永享6年(1434)
死没
明応6年(1497)
享年 60歳or64歳
氏族
足利氏(鎌倉公方家)
父母
父:足利持氏(第4代鎌倉公方)
母:大井氏(信濃の豪族)
兄弟
義久 春王丸 安王丸
永寿王丸(成氏) 尊?

政氏、上杉顕実、貞巖昌永
性格
京都の幕府に戻りたかった父の怨念と、兄たちを殺された将軍家への復讐、一族が非業の死を遂げた要因を作った関東管領家に対する禍根など、すべて幼少の頃より胸に秘め、育てられた反骨の人。
その強すぎる遺志は、結果的に、父の悲願であった鎌倉府の復活に成功し、関東に再び覇を唱える事ができた。
幼少の頃より苦労したせいか、政治力に長け、いくつかの危機を乗り越える事が出来た。
強運も味方した。
ただ、政治的に勝利者となっても、関東に戦国時代を到来させた要因を作ってしまった。
領民の平和よりも、自らの欲望を優先させたとも言えるだろう。
それが結果的に北条氏など新勢力の台頭を促すことになった。

プロフィール
第4代鎌倉公方・足利持氏(第3代将軍・足利義満の三男)の四男。
永享10年(1438)、幼名・永寿王丸(成氏/万寿王丸とする説もある)は、「永享の乱」が勃発した年に生まれた。
父・持氏が、関東管領・上杉憲実と対立関係になった年である。
翌年には、第6代将軍・足利義教が上杉憲実と結託し、持氏を破り、自刃させた。
永寿王丸(2)は、母方である信濃の豪族・大井持光のもとに逃げたが、兄の春王丸(10)、安王丸(8)は、家臣である結城氏朝によって保護された。
結城氏朝は幼い2人の兄弟を擁して、幕府軍に反撃したが敗れ(結城合戦)、春王丸、安王丸は、将軍・義教の命により殺された。
永寿王丸(4)は、幼年のため死を免れ、京都に送られた。
しかし、この年(嘉吉元年/1441年)、将軍・義教が、播磨・備前・美作の守護・赤松満佑(みつすけ)に暗殺される事件が起きる(嘉吉の乱)。
将軍・義教が死んだ事により、永寿王丸が放免される事となる。
それから7年後の文安5年(1448)、父・持氏と対立していた上杉憲実の長男・憲忠(16)が関東管領に就任する。
翌年の宝徳元年(1449)、永寿王丸は、京都から鎌倉に移り、元服し、足利成氏(12)を名乗り、同時に、父の死後、空位だった第5代の鎌倉公方となる(鎌倉府の復活)。
成氏は、父の死の原因は、関東管領であった上杉憲実にあると思い、その子息である現・関東管領である憲忠への攻撃の機会をうかがっていた。
宝徳2年(1450)、それを察した山内上杉家(関東管領家)の家宰・長尾景仲(憲忠の舅)は、扇谷上杉家当主の上杉持朝と共謀して成氏を攻撃したが、逆に反撃を受けてしまう(江の島合戦)。
関東管領・上杉憲忠(18)は、直接この戦には関わっていなかったが、家臣の責任を負う形で相模七沢に蟄居させられた。
それから5年後の享徳3年12月(1455年1月)、成氏(18)は、遂に関東管領・上杉憲忠(23)を自宅に招いて暗殺。さらには、山内上杉邸も襲撃し、家宰の長尾実景も殺害した。
成氏は、父・持氏が、新年号を持ちなかったように、享徳4年7月(1455)に康正と改められても、文明9年(1477)頃まで二十余年も享徳の年号を使い続けた。
その享徳4年の3月(1455年)、幕府は、成氏討伐を決め、駿河の守護・今川範忠に鎌倉を攻めさせた。そして、成氏は、鎌倉府御料所のひとつである、下総国古河(こが)、現在の茨城県古河市に本拠を移した。その後、古河公方と呼ばれた。
戦いは、武蔵国はじめ関東各所で続いていった。
そんな中、長禄2年(1458年)、室町幕府は成氏に対抗するため、8代将軍義政の異母兄・政知を新たな鎌倉公方として関東に送った。しかし、政知は関東在住の武士たちの支持を得られず、伊豆堀越にとどまり、ここに御所をおいたので、堀越公方と呼ばれた。
以後、おもに下野・常陸・下総・上総・安房を勢力範囲とした古河公方・伝統的豪族勢力と、おもに上野・武蔵・相模・伊豆を勢力範囲とした幕府・堀越公方・関東管領山内上杉家・扇谷上杉家勢力とが、関東を東西に二分して戦い続けた。
長禄3年(1459)、幕府は五十子(いらこorいかつこ/埼玉県本庄市五十子)へ諸大名に命じて征討軍を派遣しようとし、成氏もこれに反応し、太田庄(埼玉県熊谷市)で交戦。五十子陣を挟んで約18年に渡ってにらみ合った。
寛正7年(1466)には、関東管領・上杉房顕が五十子陣で病没するなど、幕府・上杉軍が劣勢に。やがて京都では度重なるお家騒動を発端として諸大名が2派に分かれて戦い、応仁の乱(1467~1477)が勃発、幕府は関東に軍勢を送れなくなってしまった。
文明3年(1471年)3月、成氏は小山氏・結城氏の軍勢と共に遠征して、伊豆の堀越公方を攻めたが、逆に敗れて古河城に撤退した。一時、成氏も危うかったが、上杉勢も古河城に入るだけの力がなく、文明4年には、成氏は古河城に帰還することができた。
一方、文明8年(1476年)、五十子陣において、山内上杉家の家宰・長尾景信が死に、長尾景春は、その後継は自分だと思っていたが選ばれず、乱を起こす(長尾景春の乱)。文明9年(1477年)、長尾景春は武蔵鉢形城を拠点として上杉勢の五十子陣を攻撃し、これを破壊したため、対古河公方攻守網が崩れる。
関東管領・山内上杉顕定と扇谷上杉定正は、上野に逃亡。
この上杉陣営の内紛を使用して、戦いに飽きた成氏は少しでも有利な条件で和睦を打診し、文明10年(1478年)正月に成氏と上杉氏との和睦が成立。
最終的に文明12年(1480)に、景春の反乱は扇谷上杉家・家宰の太田道灌の活躍によって鎮圧されたが、上杉陣営の弱体化は明白であった。
長年難航していた幕府との和睦交渉も、越後守護上杉房定が、幕府管領細川政元との仲介に立つことで進展し、文明14年11月27日(1483年1月6日)に古河公方と幕府の和睦が成立した。これを「都鄙合体(とひがったい)」)と呼ぶ。
この結果、堀越公方・足利政知は伊豆1国のみを支配することとなり、政治的には成氏の古河公方の地位が幕府に承認されたと考えられる。
「都鄙合体」の後、成氏は朝敵の汚名から解放され、嫡男の政氏の名前も将軍義政から一字を譲り受けた。成氏が用いた「享徳」年号も、享徳27年(文明10年)以降の記録はない。しかし、その後も関東では、古河公方と堀越公方の2つの権力が存在し、山内・扇谷両上杉氏間の抗争(長享の乱)勃発など不安定な状態が続き、成氏が鎌倉に戻ることはなかった。
長享3年(1489年)には、成氏は、政氏に家督を譲った。
明応6年(1497年)死去。享年60歳(64歳と言う説もある)。臨終の際には嫡子の政氏を呼び、「再び鎌倉に環住し、関八州を取り戻すことが孝行である。何にも勝る弔いになる」と言い残したという。
古河公方は、五代まで続いた。

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