伊豆半島の突端から少し山に入ったところに位置する下賀茂温泉は、伊豆半島で最西端に位置し、山の豊かな自然と青く澄んだ海の二つが味わえる下田の奥座敷といわれる温泉地だ。青野川周辺に温泉宿が点在し、のどかな田園風景の中には自墳泉の湯煙がたなびく情緒溢れる景色に出会える場所である。
開湯の歴史は古く、永禄年間(1558年〜1570年)と伝えられており、傷ついた鳶(とび)が湯で体を癒していたのを発見したのが始まりという。
そんな下賀茂の山間にひっそりと抱かれるように佇む宿が「藤波荘」である。
「藤波荘」では、チェックインを済ませると、まず玄関正面にあるロビーでお茶とお菓子をいただきながらの一服となる。お茶は甘い香りとほのかな酸味が爽やかなストロベリー茶で、お菓子はメロン最中。
また、こちらの宿の看板犬、キャバリアのヘンリーとチャイクレのヤムチャも、愛くるしい仕草で迎えてくれる。
一息付いたところで今度は館内着のセレクトサービスが。男性は浴衣か作務衣、女性は浴衣が選べるようになっている。好みの柄の館内着を選んだら、部屋への案内の途中で貸切風呂の説明を受ける。
「藤波荘」には大浴場がない。全部で4つある浴室は、すべて貸切風呂になっている。各階には浴室の空き状況が一目で分かる案内ランプが備え付けられていて、わざわざ浴室まで行って確認しなくても済むようになっている。
そのような説明を聞きながら部屋へ向かうのだが、そこで目を引かれるのが館内の至るところに飾られている「婦人画」の存在だ。
これらは高沢圭一氏の作品でる。高沢氏は雑誌「婦人公論」の表紙を7年間担当し、また朝日賞やフランスのル・サロン賞など、数々の輝かしい功績を残した画家である。高沢氏の姉と女将・藤波佐久江さんの母が親友同士だったことから懇意になり、常宿として「藤波荘」を利用していたという。
また、画集の出版記念パーティーには、あの大物女優・栗原小巻さんも参加していたとのこと。
飾られた絵を鑑賞しながら進む廊下は、さながら高沢圭一美術館といった趣すら漂っている。繊細な筆致で描かれた妖艶な「婦人画」は、男女問わず見る者を惹きつける不思議な魅力を放っている。
「藤波荘」の客室は全8室。露天風呂付き客室が3室に、温泉の蒸気を利用したスチームサウナが据えられているサウナ付き客室が1室。残り4室は一般客室となる。
特別客室「藤」は唯一の和洋室。2ベッドに8帖の和室という間取りだ。露天風呂の他に内風呂も付き、その内風呂でも源泉100%掛け流しの贅沢が味わえる。また。こちらは高沢圭一氏が120日間滞在したという部屋でもあり、まさに特別室といった貫禄がある部屋だ。
「桜」と「桐」も露天風呂付き客室になっていて、それぞれ和室10帖+広縁(イス・テーブル)という間取りになっている。「桜」の露天風呂は全体的にゆとりのある造りで、天井から桶が下げられていてお酒を置けるようになっているのが特徴。「桐」の露天風呂は天井と周囲が壁に覆われているので眺望は楽しめないが、露天の開放感が苦手という方には安心して入浴できる造りとなっている。また、それぞれの部屋には32インチTV、洗面所、トイレが付いている。
「桃」は客室露天風呂はないが、温泉の蒸気を利用した「スチームサウナ」が備わっている。10帖+広縁(イス・テーブル)という間取りになっていて、26インチTV、洗面所、トイレが付く。
残りの4は一般客室だ。「桂」と「楓」は10帖の和室に広縁(イス・テーブル)、26インチTV、洗面所、トイレ付きという間取りの客室になっていて、「桂」にはソファベッドが付いている。
松」と「梅」は10帖+広縁(イス・テーブル)、32インチTV付き。
各客室にはオセロや剣玉、お手玉といった昔懐かしいおもちゃが置いてあり、自由に遊ぶことができる。小さなお子様はもちろん、たまには童心に返りレトロなオモチャで往事を偲ぶなんていう過ごし方もよいのでは。
次は旅行で楽しみの多くを占める食事の紹介をしよう
夕食、朝食ともに民芸風の造りになっている食事処「花凛亭」でいただくことになる。全て個室になっていて、テーブルとイスの洋室タイプと畳や掘り炬燵の和室タイプがあるので、好きなスタイルで食事を楽しむことができるのが嬉しい。
料理のコースは2つあり、リーズナブルな「ライトコース」(平日16,000円)とボリューム満点の「スタミナ会席」(平日22,000円)だ。
2008年5月の取材時には、「スタミナ会席」をいただいた。以下にメニューを紹介しよう。
食前酒は自家製の山桃酒。こちらは季節によってウメや夏みかんのお酒に替わるとのこと。小付は豆腐にそらまめとホワイトソースを和えたもの。そらまめはすぐ近くの畑で採れた新鮮な素材だ。
前菜は茶豆、サザエのクリームソース和え、龍眼揚げ(りゅうがんあげ)の3点が並んだ。龍眼呼んで字の如く、龍の目玉を模して形作られたおからをあげたもの。
造りは鯵(あじ)と鰹(かつお)と平目(ひらめ)の三点盛り。魚はすべて地元(駿河湾、相模湾)の漁師から直で仕入れていて、新鮮さと地元素材にこだわっている。
会席でいうところの吸物にあたる料理として出されたのはのガスパチヨ。こちらはキュウリの冷製スープで、アーモンドとガーリックの風味が香ばしく、キュウリの爽やかさとアーモンドのコクが見事にマッチした逸品。
凌ぎは鰻(うなぎ)のおこわ。口に含んだとたんふわっととろけるほど丁寧に蒸し焼かれた鰻は、一口ほどの量が残念に感じるほど旨い。
焼き魚は鮎の塩焼き。すぐ近くを流れる青野川で獲れた鮎で、骨までしっかり焼かれている。好きな人は頭からかぶりついていただける。また蓼酢(だてす)がきちんと添えられているのも嬉しい。ちなみに蓼酢とは独特の香りから、薬味や香辛料、刺身のツマなどによく使われるダテ科の一年草をすり潰し、米酢を混ぜたもののこと。
煮魚はカサゴの煮付け。もちろん地元で獲れたカサゴで、椎茸と小松菜、針しょうがが添えられている。味の染み込んだ柔らかい身は、酒のつまみとしても最適。
焼き物は黒毛和牛のヒレステーキに打ち込み野菜(レタス、トマト、キュウリ、ニンジン、タマネギ)が付く。肉の付け合せはピーマンとトウモロコシ。
酢の物はタコとホタテの黄味酢掛け。もずくとキュウリが添えてある。
食事はご飯ではなく蕎麦が。ワカメを練りこんだ手打ち蕎麦に、天城産の山葵をその場で卸しながらいただく。コシのある蕎麦は、噛めば噛むほど蕎麦と磯の風味が口中に広がり、非常に美味しい。
デザートは手作りイチゴムースケーキ。こちらは元料理人だった専務のお手製。現在は主にメニューのプロデュースを担当しているが、現在でもデザートやアイスは専務が作っているという。
また、夕食と一緒にオーダーすることのできる「藤波荘」オススメの日本酒。初亀(はつかめ \12,50)、喜久酔(きくよい \1,500)、志太泉(しだいずみ \12,50)、高天神(たかてんじん \1,400)、由比の匠雪(ゆいのしょうせつ \1,000)が用意されているので、日本酒好きの方はぜひ試してみては。
朝食は箱物に枝豆をすり潰した自家製豆腐、紀州梅干しと南伊豆かまぼこと天城わさび漬け、明太子としらすおろしと海苔山葵、自家製おから、インゲンのお浸し。それに玉子焼き、ダイコンおろし、旭洋丸アジの干物、金目鯛のお刺身に白飯と伊勢海老の味噌汁、香の物が付く。蜂蜜入りの豆乳と、デザートはパッションフルーツだった。
食事を堪能し、部屋でしばし寛いだら、やはり温泉に足を運びたくなるというものだろう。時間の許す限り、何度でも湯浴みを楽しむというのが、湯宿での王道の過ごし方だ。また、豊富な湯量と効能豊かな泉質、そしてそれぞれに特徴のある湯舟は、そうしたくなる魅力に溢れているのだ。
また、現在は自家源泉を持つ「藤波荘」だが、以前は温泉会社からの配湯に頼っていた。その当時は、温泉会社の配管管理などがかなり杜撰で、配湯されるお湯が茶色く濁って宿泊客に提供できないなんていうトラブルも多かったという。
それならばと、昭和57年に思い切ってボーリングを行ったところ、地下250メートルで見事温泉を掘り当てたという。現在も、当時と変わらぬ温度・湯量でこんこんと湯が溢れ、飲泉も可能な新鮮な温泉を堪能することができるのだ。
たっぷり温泉を堪能した後は、玄関横にあるマッサージチェアとロデオマシーンを試してみるといのもありだ。両方とも無料で利用することができるので、ゆっくり温泉を楽しんだ後、さらなる癒し、もしくはシェイプアップを目指したい方はチャレンジしてみるといいだろう。
また、お茶請けと一緒に置いてあった玉子は、「猩々の湯」に行く途中にある温泉玉子専用の茹で場で温泉玉子にすることができる。柔らかめが好きな方は20分、固目が好きな方は40分、この茹で場に浸けておくと、美味しい温泉玉子が出来上がる。温泉自体に若干の塩分が含まれているため、そのままでも充分美味しくいただけるが、塩が欲しい方はフロントに言えば用意してもらえる。さらに茹で場の裏には飲泉所も。身体の外と内の両方で、温泉の効能を体感できる。
「藤波荘」は深い山の中にありながら、海から近いという立地にある。車で15分も走れば真っ白な砂浜が続く弓ヶ浜へ出ることができるし、また南に15分ほど進めば伊豆最南端の石廊崎へ行くこともできる。さらに、弓ヶ浜近くに「藤波荘」が特別に契約しているプライベートビーチがある。若干岩場が目立つがトップシーズンの夏期でも、人混みに揉まれるような海水浴とは無縁で海を楽しむこともできるのだ。
宿のすぐ真裏には模擬登山が楽しめる専用の「ツツジ山」もある。標高は30メートルに満たないくらいの小さな山だが、頂上からは周辺の山々や村が一望できる、なかなか気持ちの良い場所となっている。
お土産コーナーでは、お茶請けにもなっている宿オリジナルの「抹茶菓子」(\1,050)や出来たてを届けてもらうため、前日に予約が必要な「メロン最中」(15個入り\1,680)などを購入することができる。特に「抹茶菓子」は味付けを女将自らが行っているこだわりのお土産で、人気の商品。宿を後にする前に、ぜひ立ち寄ってみてほしい。
宿を始めたきっかけは、女将さんのご主人の故・藤波篤行さんが突然、宿をやりたい
と言って、現在の「藤波荘」の土地、1,000坪を購入したことにさかのぼる。
それまで、サラリーマン家庭の専業主婦だったのが、いきなり温泉宿の女将さんに
なってくれというのだから、その当時は本当に驚いたという。
女将さんが41歳の時
だった。
現専務・達成さんは、当時、東京で高校生だった。その達成さんを1人暮らしにさせ
て、女将業に専念しなければならなかったという現実は、やはり子供を持つ母親とし
ては、大変つらい思いだったに違いない。
昭和52年の創業当時は、世の中のご多分にもれず苦労が絶えなかったようだ。
慣れない仕事を朝早くから夜遅くまでこなさなければならず、体力的にも精神的にもつら
かったと女将さんは当時を振り返る。
しかしながら、雑誌などで取り上げられ、徐々にお客さんも増え始め、少しずつ客商
売の楽しみを味わうことができるようになってきた。
それは、女将さんの人柄によって、多くのリピーターを作り出していったことに比例
する。
しかし、創業から数年の頃は、現在のように自家源泉を持っておらず、業者から温泉
を買っていた状況だった。特に天気が雨になると、お湯が濁り、冬場はボイラーが必要なほど湯温が低くなった。
そこで、篤行さんは昭和57年に、一念発起して敷地内でボーリングを開始し、地下
250メートルで現在の泉源を掘り当てたという。
それはなんと湯温も90℃もあり、泉質も申し分なかった。
ここから、温泉、料理、サービスとようやく温泉宿の繁盛の三要素がそろい、南伊豆
随一の人気旅館となるのである。
そのご主人も肺がんが原因で入院し、平成10年に他界。今まで二人三脚でやってきた
宿も今度は女将さん一人で切り盛りしなければならなくなった。
宿を閉じる事も考えたそうだが、やはり二人で築き上げた旅館をこのままやめていい
ものか自問自答しているうちに、東京・中野でふぐ料理店を経営していた息子の達成
(専務)さんが平成14年に宿に入り、今では親子で「藤波荘」を守っている。
「藤波荘」の常連客は、この宿を第二の故郷のように思っているような気がする。
たった8室の客室で、お風呂は4つとも貸切のお風呂。しかも源泉100%の本物の天然
温泉。
料理も、伊勢エビ、アワビなど豪華メニューも揃えることもできるが、宿泊プランに
よっては料理の品数も減らし、リーズナブルに泊まれるようにもなっている。
とにかく、我が家のように過ごす事もできるし、または露天風呂付き客室を選んで、
プライベート重視でお篭りすることも可能だ。
「藤波荘」を知っている大人は幸せだ。言い換えれば、この宿を使いこなす大人は頭
がいい。
ここを別荘代わりに使うという発想は、なかなかいいアイディアだ。
小さい宿ながらも、人と触れあいたいという客から、ほったらかしがいいという客ま
で網羅できる宿はそうない。
高級旅館の雰囲気もありながら、敷居の高さを感じさせない不思議な宿は、南伊豆に
あった。(J/Hr)