長野県松本市の中心部から車で約30分。県道67号松本和田線を扉峠に向かって進んで行く。薄川(すすきがわ)の渓谷沿いに作られた道をひたすら先へ進み、標高が1,050mに差し掛かると突如視界が開ける。ここが「扉温泉」だ。その名称は、日本神話の中の“岩戸伝説”に由来すると言われている。天照大神(アマテラスオオミカミ)が天の岩屋に閉じこもってしまった結果、世の中は真っ暗闇に。困った神々が、岩屋の外で宴を開いた結果、天照大神が岩戸を開けて外を覗いた隙に、力自慢の天手力雄命(アマノタヂカラオノミコト)が、その岩戸を下界に向かって投げ捨てた。その岩戸が「扉温泉」のある松本市入山辺の山中に落ちたと伝えられていることから名付けられたという説や、もともとここは神様が湯治をする温泉で、岩戸をかついだ天手力雄命が訪れた際、岩戸を置き忘れたことから名付けられたという説が残されている。
「扉温泉 明神館」は昭和6年6月にこの地に誕生した歴史と格式ある旅館だ。前述のように「扉温泉」自体が神々と関係深いと伝えられていたことに由来し、創業者である齊藤武茂氏が“神様たちの宿”という意を込め「明神館」と名付けた。世の中は、まだ交通網の整備も不十分で、車も珍しい時代。「扉温泉」が胃腸の湯として名を馳せていたこともあり、山奥の旅館は湯治場として愛されることになる。戦後に入ると、交通網の整備も進み、世の中も車中心で動くようになりつつあった。そこで昭和50年10月に、鉄骨4階建ての山科棟を造る。湯治場としての色合いは残しつつも、本格的に旅館を営むようになったのはこの時からだ。以降、平成5年6月に鉄骨4階建てのお鷹棟、平成15年7月に鉄筋3階建ての青龍庵を造り規模を拡大すると同時に、時代に合わせた改築をポイントを絞って行ない、現在の姿が完成した。
なぜ山の中の湯治宿が、日本を代表する旅館にまで成長できたのか。その礎を築いたのは現社長の齊藤茂行氏である。「日本の旅館はかく在るべき」という現社長の信念の下、日本の伝統を色濃く受け継ぐ和風旅館として知られるようになった。
現社長が築き上げた和風旅館に様々な要素を持ち込み、更なる発展へと導いているのが専務の齊藤忠政氏。まだ世間が環境に対して無関心に近かった時代に、「自然に逆らっても良いことは無い」というエコロジーの理念をいち早く持ち込んだ。旅館内で出る生ゴミをコンポストに掛けて有機肥料を作り、それを用いて現会長と専門チームが自家農場で有機野菜を生産している点もその代表的な試みである。その他、この冬は旅館内で使用する全ての電気を二酸化炭素の排出を抑えるためにLPガスを用いて自家発電をしていた。今年の夏は川の水を利用したクーラーを計画中である。その取り組みに終わりはなく、旅館内で出来る限りの事を循環させ、環境になるべく負荷を掛けないというこのスタイルを追求し続けている。
さらに、日本伝統の和風旅館の守るべき点は守りつつも、海外のリゾート地やホテルなどから数々のものを「明神館」に持ち込んだことも特筆すべき点。寝湯や立ち湯など趣向に富んだ浴場や、どことなく異国感が漂う館内の設えは、リゾート地からインスパイアされたもの。また、ホテルのようにドアの外側に札を掛けておけば、仲居さんが部屋に立ち入らないシステムなどは、今となっては当たり前のように感じるが、こと旅館だけに限定すれば大改革だったとも言える。古き良き伝統を尊重しつつも、「良いものは良い」と認め、取り入れることが出来る柔軟な姿勢こそが、日本を代表する旅館にまで「明神館」が成長した一番の理由なのだろう。
また、「明神館」の今後を担っていく専務は、既に様々なプランを思い描いているようだ。その中の一例をご紹介すると、旅館とリゾート地が融合した独特な雰囲気が魅力の館内に、違和感なく「和のあしらい」を盛り込んでいくことを、まずはじめに実践していきたいと語ってくれた。
客室でのチェックインを済ませた後はロビーを訪れたい。ゆったりと寛げそうなソファーがいたる所に置かれ、宿泊客が楽しそうに談笑する姿が見受けられる。また、ロビーではコーヒー、オレンジジュース、りんごジュースなどのウェルカムドリンクがサービスされている。
趣向に富んだ客室は館内に全部で45室。豊富なアメニティが揃えられているだけでなく、枕やベッドのマットレスにまでこだわった最上の空間にそれぞれが仕上げられている。間取りや設えなどそれぞれに特長ある客室だが、大きく分けると5タイプに分けられる。ここでその代表的な部屋を紹介させていただく。
「青龍庵ベッド付きタイプ」は館内に4室。広さは異なるものの、どの客室の間取りもツインベッドルーム+リビング+ダイニング。もちろん露天風呂付き客室だ。その露天風呂には屋根が付いているので、天候の変化も関係なく湯浴みを楽しむことができる。また、洗い場としてシャワーブースが付いている点も見逃せない。眺望は、四季折々様々な表情で楽しませてくれる山肌を、眼前に拝むことができる。
「癒し風呂タイプ」は館内に11室。内訳は、和室が9室、洋室が2室だ。客室毎に趣向を
凝らしてレイアウトされた、露天風呂・または半露天風呂が付いている。眺望は、薄川の流れと、森の木々を心行くまで眺めることができる。
ここで、「癒し風呂タイプ」で特に印象的な客室を紹介したい。
癒し風呂タイプ客室「葛城」212号室は、ツインベッドルーム+リビング+ダイニングの間取り。快適な睡眠に誘ってくれると評判の米国シーリー社製の「ポスチャーぺディック・マットレス」が使用されている。最も注目していただきたいのは、この客室にはアルカリイオン水を利用した炭酸水バスが置かれていることだ。高血圧や心臓病に効果があると言われる炭酸水風呂は、温泉でないからこそ40℃前後の温度で湯浴みを楽しむことができる。また30分くらいじっくりと浸かれば、効能が実感できるそうなので、興味がある方は是非チェックしてほしい。
「山科タイプ」は館内に6室。間取りは全室和室10帖もしくは12.5帖+イスとテーブルが配された広縁だ。残念ながら露天風呂・半露天風呂は付いていないが、このタイプの客室は内風呂で源泉100%掛け流しの温泉を楽しむことができる。
「お鷹和室タイプ」は12室。間取りは全室和室10帖+リビング。リビングには暖炉が配されており、冬場は、懐かしくほのぼのとした心地で過ごせるだろう。
「お鷹ベッドタイプ」も12室。間取りは全室ツインベッドルーム+リビング。和室タイプと同様に、リビングには暖炉が配されている。また、ベッドのマットレスには快適な睡眠に誘ってくれると評判の米国シーリー社製の「ポスチャーぺディック・マットレス」が使用されている。やすらぎの時間を過ごすことができるだろう。
なお、お鷹タイプ客室の内風呂は温泉ではないので注意してほしい。
「明神館」には4種類のお風呂があり、館内で湯巡りを楽しむことができる点はポイントが高い。
まず男女別大浴場には、それぞれ内湯と露天風呂が備えられている。大人15人程度ならばゆったりと湯浴みを楽しむことができるだろう。嬉しいことに24時間利用可能だ。
湯殿「雪月花(せつげつか)」には男女別に立ち湯がある。湯殿に足を踏み入れた一番奥が120cmと一番深くなっている。正面の森を眺めながら、自然と一体化した気分で堪能する湯浴みは、また格別の雰囲気が味わえる。この立ち湯も24時間利用可能だ。
湯殿「空山(くうざん)」には男女別に寝湯がある。人間が一番リラックス出来る体勢で湯に浸れる寝湯は、リフレッシュ効果も高い。夕方以降はキャンドルでライトアップされ、幻想的な空間になっている。日の出の時刻〜23:00まで利用可能だ。
館内から外に出て、薄川の手前を左手に降りていくと川沿いの混浴露天風呂がある。四季折々に表情を変える自然を一番間近で体感することが出来る。この混浴露天風呂も日の出の時刻〜23:00まで利用可能だ。なお、19:30〜21:30の時間帯は女性専用となっているので注意が必要だ。
上記の4つのお風呂の泉質はアルカリ性単純温泉、源泉100%掛け流し+循環の温泉だ。柔らかく肌に染み入るお湯を、じっくりと堪能していただきたい。
アロマテラピーサロン「aroma room Natura(アロマルーム なつら)」も「明神館」の人気に拍車をかけている。基本的には宿泊客のみが利用できるが、人気が高いため当日はすでに予約で満杯ということもあるそうだ。宿泊日の一ヶ月前から予約を取ることができるので、事前にチェックした方が良いだろう。ヘッド&ショルダーやハンドトリートメントを行うショートコース(30分/\6,300)から、トータルヒーリング(180分/\32,000)まで幅広いコースの中から自分に合ったコースで癒されたい。
夕食は「オーガニックフレンチ」、「モダン和食」、「懐石料理」の三種類から予約時に選ぶことができる。どの料理を選択したとしても、JAS認定の自家農場で収穫された有機野菜やそれぞれの料理長が厳選して集めた旬の食材をふんだんに用いた、マクロビオティックな身体に優しい料理をいただくことができる。また、食材の旬にとことんこだわっているので、季節を感じる料理が楽しめる。
まず、取材日(2008年2月)の「オーガニックフレンチ」の夕食を紹介する。
最初に出されたのは、フランス産黒トリュフが用いられたスープ。SPS無菌豚をラードで煮詰めた「リヨンポーク」がスープの具。
フランス産の鴨のフォアグラのブリュレと、マンゴーとローズマリーが入った花梨ピューレを塗ったバケット。
「ハトと手紙」と名付けられた鳩料理では、砂糖で作った飴細工の隣に、香草の粉末を振りかけられた手紙がそえられているという芸術的な一品となっていた。
オマール海老と石川産の天然鯛は、玉ねぎを乾燥させた粉末で砂をイメージさせ、盛り付けに一工夫していた。
信州産山葵とグレープフルーツのシャーベットがここで箸休めとして出される。ピリッと辛い山葵シャーベットは、爽快感をあたえてくれる一品。
塩尻で飼育されている小山牛のステーキ。メインディッシュはこの他に子羊料理と蕪料理があり、事前に選択することができる。
デザートは、カスタード、サフランが入ったカスタード、ビーツのピューレ、紫芋のピューレの4種類のソースで鮮やかに彩られたワッフルに、フルーツが添えられている。
そして、食後にはコーヒー、紅茶、ハーブティーが選択できる。
次は、「懐石料理」の夕食を紹介したい。
まず出された食前酒は自家製の「よもぎ酒」。旬の素材を用いた自家製のお酒は、季節毎に違った品が出されるそうだ。
次に出されたのは「名残雪」と命名された温菜。蛤ともずく、芽葱、米麹が入った料理。冬の土地をイメージした一品だ。出汁がしっかり染み込んでいておいしかった。
「鶯色(うぐいすいろ)」と命名された季菜。炙り帆立の上には、蕗、独活、山ごぼう、冬の時期にしか獲れない新海苔(岩海苔)が盛り付けられていた。独特な苦味が春が間近に迫っていることを感じさせる一品だった。
「ひな花」と命名された八寸。昆布を被せた岩魚の小袖寿司、菜の花煎り卵、酒粕と干し柿を合わせた干し柿博多、慈姑せんべい、田螺(たにし)が並んだ。
「若春 薄ら味噌」と命名された御椀。百合根と人参が入った大根餅、蛍烏賊、芹、芽甘草、木の芽が具の味噌仕立ての吸い物だ。味噌の味付け加減が絶妙だった。
「芽吹き」と命名された替り向。桜鯛、信州鮭、野蒜(のびる)の乗った湯葉雲丹、たらの芽、菜鈴(なずな)をあっさりと梅醤油でいただいた。
「とろろ仕立て」と命名された強肴。長芋の汁の中に、春菊が乗せられた塩尻のブランド牛・小山牛が盛り付けられていた。
「香り焼」と命名された焼肴。鰤の照焼、新筍、天豆の焼物に木の芽が振りかけられた一品。シンプルだが、厳選された食材だけあって非常においしかった。
「冬景色」と命名された油物。白扇揚げにされた しとうと山辺平茸、信濃雪鱒が盛り付けられていた。あっさりと柚子味噌でいただく。
「梅香(ばいこう)」と名付けられた止肴。水蛸とうるい、白木耳に梅の食感が残された梅酢が掛けられていた。
御食事は野沢菜御飯。大根、人参のぬか漬け、セロリの粕漬け、奈良漬などが並ぶ香の物と、留め椀として凍豆腐、神馬草、三つ葉の入った田舎仕立ての味噌汁が並んだ。
最後に「柿合え」と名付けられた水菓子。牛乳とくず粉から作られた嶺岡豆腐に小豆、地元産の苺、ピーナッツオイルを含ませた柿ソースが添えられていた。牛乳と蜂蜜入り生クリームの生み出すしつこ過ぎない甘さが非常に印象的だった。
夕食で「オーガニックフレンチ」、「モダン和食」を選択していたとしても、朝食は和食に統一されている。その朝食は、和食の食事処である食事処「屋敷」、「観望」、モダン和食の食事処「ダイニング四季」のいずれかでいただくことになっている。
レモンと蜂蜜入りのレモンミルク、自家製のゴマドレッシングがかかったサラダ、きゅうりや赤カブの漬物、薄揚げや蕨の佃煮、がんも・山芋・蓮根・揚げ蕎麦の煮物、卵焼き、昆布の佃煮、焼鮭、山葵漬、茸・大根・人参・じゃがいも・玉ねぎなどが入った具沢山の味噌汁が並ぶボリュームたっぷりの朝食。ご飯は発芽玄米と海苔粥をいただくことができる。放し飼いで育てられている鶏の卵や、売店でも購入することができる納豆もおいしかった。
朝食の後、チェックアウトまでは時間があるので、もう一度湯浴みに行くことをおすすめしたいが、同時にフロント横にあるショップのチェックも忘れずに!
店内には「扉」マークのロゴが入った、「明神館」オリジナルのお土産品が数多く揃えられている。「采女(うねめ・\840)」や「そばまんじゅう(\1,050)」といった銘菓から、「セロリー漬(\525)」や「納豆(\150)」などの食べ物、さらには「ペンケース(\3,000)」や「コインケース(\3,000)」までも揃えられており、その種類の豊富さは、何を購入したら良いか目移りしてしまうほどだ。
なかでも特に注目してほしい一品は、「オーガニックフレンチ」の料理長である田邉シェフ直伝のレシピをもとに、松本市内のパン屋毎朝限定10個のみ焼き上げるパンである。おいしいと評判なだけに、すぐ売り切れてしまう一品。もし購入を希望するのであれば、パンが届く午前10時にショップへ駆け込むか、事前にショップで予約しておきたい。
公式ホームページの予約画面をご覧いただければ分かることだが、「明神館」には様々な選択の自由がある。客室を選択して予約を取ることができるだけでなく、客室の後には「ネッ得プラン」、「レディースプラン」、「記念日プラン」、「PET-CT(がん検診)」の4種類からプランが選択できる。夕食も「オーガニックフレンチ」、「モダン和食」、「和食懐石」の3種からの選択制だ。それぞれに魅力があるので悩んでしまうことは間違いないが、これは旅行の計画を立てる際と同様で楽しい選択の悩みと言えるだろう。その他にも様々なサービスプランが提示されている。自家用のバスで宿泊客の自宅や、空港など指定された場所まで迎えに行く「ドアtoドア」サービス(片道(6時間)/\42,000〜)はその顕著な例だ。高齢者がいたり、大人数で宿泊する場合、こういったサービスは非常にありがたい。
温泉旅行の定番といえば、1泊2日で行くことが主流だと思われるが、それではいささか忙しないことも否めない。時間的制限のある中ではこれが精一杯なのかもしれないが、東京や名古屋から3時間程で到着することの出来る松本という立地を生かしたこんなプランはどうだろう。金曜の夜に松本に到着し、その足で向かうのは明治時代の商家の蔵をフレンチと和食が味わえる2軒のレストランにリニューアルさせた「ヒカリヤ」。明神館の姉妹店として2007年にオープンしたこのレストランで食事を取り、その後夜遅くに「明神館」にチェックインをする。翌日の土曜は一日ゆっくり滞在して、日曜にチェックアウト…といったプランを「明神館」は提案してくれている。
大自然の真ん中に建つ旅館らしく、4月の桜、10月の紅葉など四季折々の自然の表情が楽しめる。またその自然を満喫してもらうために、旅館そばの林道で楽しめるレンタルバギーなども考えている。
客室からは携帯電話も通じにくく、談話室以外ではインターネットを利用することが出来ないが、全てを忘れてリフレッシュするには最適な旅館なのかもしれない。
「扉温泉 明神館」は、“和”と“洋”の絶妙のバランスを持っている宿と言える。
“和洋折衷”という言葉があるが、それはまさに日本人が持っているバランス感覚ゆえに作られた文化なのだろう。この宿の居心地の良さは、それに起因するところが多い。
そして実際にこの地に来ればわかることだが、高地ならではの澄んだ空気が心地良い
。リゾートと言われるところは、やはり空気は美味しくなければならない。ただ、建物から開放的な眺望はここでは期待できない。いわゆる谷あいにあるロケーションにあるからだ。だが「明神館」には、前記のような旅人を惹きつける多くの魅力に満ち溢れている。
日本にはハイレベルな海外の高級リゾートのような施設はまだまだ少ない。しかしこの宿は「和のリゾート」としての代表格として挙げられることに異論はないはずだ。
温泉とリゾートを融合させたこの宿の更なる進化をこれからも見届けたい。(J/NS)