信州松本の奥座敷、浅間(あさま)温泉は、「日本書紀」において天武年間に開湯されたと伝えられる、1300年の歴史と伝統に彩られた温泉郷だ。漢字も読み方も同じだが、浅間山とは何の関係もなく、距離も50キロほど離れているため見ることもできない。古くはこの一帯は「麻葉野(あさばの)」と呼ばれていたため、それが転訛して「浅間(あさま)」になったとも言われているが、はっきりはしていないそうだ。
その歴史ある浅間温泉は松本駅からバスで約20分、背後に丘陵を抱く高台に位置し、松本城や開智学校などの観光名所にも程近い、便利で自然豊かなロケーションにある。大小30件以上の旅館やホテルの建ち並ぶこの温泉郷はもの静かな佇まいで、まさに「奥座敷」という表現が似合う。
この温泉街にあって、威風堂々たる外観が目を引く「ホテル玉之湯」は明治18年創業の歴史ある宿だ。だが、このお宿の醸し出すその清潔で明るい空気には、伝統や格式といういわゆる老舗宿の持つ重厚な雰囲気よりもむしろ、新進気鋭のお宿の勢いにも似た新鮮な空気が感じられる。
それを現しているのが、温泉宿では非常に珍しいシステムの数々。泊食分離のシステムを採り入れ、さらにメニューも選べる料理。公式ホームページ上で部屋のタイプとその料金詳細も明示することで、不透明さを一掃した料金システム。館内は玄関アプローチにはじまり、廊下やトイレ、そして貸切風呂や一部客室に至るまで徹底されたバリアフリー。大浴場は24時間いつでも入ることができ、動きづらい浴衣だけでなく作務衣も用意するなどなど、数え上げればきりがないほど、宿泊客の要望に大きく応えたお宿の構成がなされているのだ。
部屋数36に対し客室のタイプも15と実に多岐に渡り、多種多様な客のニーズに応えている。その中でも、客室に温泉露天風呂が付くのが3室。まず、バリアフリー仕様の315号室。この客室はゆったりとした間取りが特徴で、室内に段差がなく車椅子での移動も楽にできる。ツインベッドが配されたモダンな洋室と、昔ながらの畳が敷かれた和室との2間構成になっており、幅広い年代を受け入れられることから、二世代・三世代の家族旅行などに愛用されている一室。
次に、標準的な8畳和室と6畳の次の間、そして広縁がついた503号室には、西の方角のバルコニー部分に丸いヒノキ浴槽が設置されている。天気がよければ北アルプス連山を仰ぎ、松本市街のパノラマが望める眺望自慢の一室だ。
もうひとつ、広い館内でも一番の眺望を誇る603号室。南西の角に位置することから、高ボッチ高原から松本市街、そして北アルプスの景色が部屋から望める。ヒノキの香り高い浴室は窓を全開放できる半露天式、その眺望を背景に湯浴みができるのが人気の部屋だ。
上記以外にも、温泉風呂を楽しめるのが3室ある。高円宮殿下も宿泊されたという貴賓室(410号室)は、15畳の和室とリビング、ツインのベッドルーム3部屋からなるゆったりとした風雅な一室だ。主客室は二方面に大きく窓が取られ、晴れた日には北アルプスの稜線が青空に映える様子が見られる。2室ある特別室(311、411号室)は15畳の本間に、8畳の次の間からなる。トイレが二箇所設けられており、家族や小グループでの宿泊に最適な客室となっている。
部屋でも温泉が楽しめるのは上記6室のみだが、その他の部屋もそれぞれに魅力あふれるつくりとなっている。新和風ダブル客室は2室(305、313号室)、アメリカ、キングスダウン社製の特注キングサイズダブルベッドが設置されている。落ち着きのある温かみあふれる色合いの室内には、やわらかな灯りがともる。恋人同士での宿泊には最適の一室で、室内にお風呂はないものの5階の貸切風呂は使用ができる。シャワールームとシャワー付トイレが設けられている。
新和風ツイン客室は5室(312、412、413、414、415号室)あり、それぞれ別の雰囲気がある。どの部屋も畳敷きに板の間という構成だが、部屋によってスタイリッシュ、懐かしい民芸調といった、凝った趣を醸し出すいずれも人気の客室だ。これらの部屋にもシャワールームとシャワー付トイレが設けられている。
バリアフリーが館内全体に施されているこのお宿、客室にもその心は活かされている。6室あるバリアフリー和風ツイン客室(301、302、306、307、401、501号室)はその名の通りバリアフリー仕様で、入口横にあるトイレは、段差もなく車椅子での出入りも容易なつくり。ツインベッドも寝起きが簡単にできるように、いつでも横になれるように、との配慮から。これらは、宿泊する客を選ばない客室なのである。
これら以外にも、間取りと広さの異なる様々な和室とシングル洋室が計16室用意されており、宿泊の人数や目的、連れ合いのメンバー構成など、多種多様な需要に対応できるのがわかるだろう。全36室の料金や間取りなど、詳細情報は公式ホームページにて吟味できるのも利用する我々にとってはありがたい仕組みだろう。各タイプの詳細情報を確認してから、そのまま料理の種類を選び、見積もりを出し、予約をすることができる。なお、公式ホームページ上で予約をした場合、宿泊代以外に使用できる¥500のサービス券が進呈される。
メニューが選べる創作懐石料理も好評だ。まずコースが3種類、“ミニ料理コース”、“標準料理コース”、そして“料理長特選おまかせ料理コース”から選べる。それぞれ、¥3,780、¥6,300、¥11,500で宿泊客はその味を堪能できるだけでなく、日帰り客でも¥5,250、\8,400、¥13,650で「温泉宿の夕食」を楽しむことができる。
会場は2階にある料亭「天ノ川」。全て個室に区分けされた食事処で、調理後の熱いままに自慢の料理をいただくことができる。毎晩夕食のはじまる18:00ころになると、入ってすぐ左のガラスブースで、山崎社長自らそばを打つ様子を見ることができる。これは町おこしの一環として、「浅間温泉といえばそば」というイメージ作りを進めるために始めたそうだが、今となっては毎日欠かさず続ける趣味ともなってしまったそうである。ここでは、そば粉に水を入れて練り上げ、棒で伸ばして広げて、たたんで切るというそば打ちの全工程を見学できるだけでなく、そのうち立てのそばをそのまま夕食でいただくことができるのだ。なおこの蕎麦は、宿泊日の21時までに申込みをすれば、翌日購入して持ち帰ることもできる。このお宿の料理にかける意気込みは強く、勤続15年、2年前よりこちらの料理長を務められている川古さんがリードする調理スタッフは、全36室という規模ながら10人を超えるという。取材時(2008年1月)はまだ正月ムードの残る季節、正月気分をいま一度堪能できるメニューを紹介する。
入口を入ってすぐのカウンターに用意されている夕食のバイキング。この日は、茎わさび漬け、長芋短冊切り、漬物(野沢菜、梅山ごぼう、つぼ漬け)、そして“そばサラダ”。これは、こちらの山崎社長がスペインで開催された「信州そば祭り」で提供し好評を博したもので、さっぱりとした味付けと食感が美味。これらは自由に皿に盛り、席でいただくことができる。
前菜は鶴をかたどった器に盛り付けられている。あまご昆布巻、数の子、鰻巻玉子、慈姑(くわい)、ちしゃとうの西京漬け、お多福豆といったおせち料理にも似たラインナップに添えて、長老喜(ちょろぎ)を松の枝で刺し、筍の子、梅花双見寄せの「松竹梅」を盛り込むという遊び心ある一皿に仕上がっている。食前酒には自家製の杏酒を。吸物は蛤の殻に、すり身と生身を混ぜ合わせた真丈と手毬麩、京野菜のすずしろ大根の入ったもの。
向付けは2皿から選ぶことができる。一つは通年提供している信州サーモンそぎ造り。信州サーモンとは長野県水産試験場が開発した養殖専用の、ニジマスとブラウントラウトを交配させた独自の新品種。銀色の美しい身体と、サーモンのような紅色の美しい身が特徴で、ニジマスに比べて肉のきめが細かく、肉厚で、豊かな味わいが際立つ。卵をもたないため、産卵に要するエネルギー(栄養)がそのまま美味みとなり、いつでもおいしく食べられるのも特徴だ。これは長野県限定で販売されており、コンビニエンスストア、セブンイレブンのお弁当にも使用されているという。もう一皿は季節により異なるが、この日は大岩魚卯の花和え。馬刺しの時もある。この大岩魚は明科の湧水で育てられたもので、2キロを越す大型ものもの。淡白な味わいが様々な料理と相性もよい。
蒸し物には金目鯛羽二重蒸しに、しめじ、京菜、柚子と桜ニンジンを添えたもの。正月をイメージさせる餅と金目鯛の二重構造になったこの蒸し物は、絶妙な歯ごたえが印象的な一品。
メインの品も、通年提供される肉と魚の5品から1品を選べる。一番人気は牛ヒレの炭火焼。新鮮な野菜を散りばめたお皿の上は華やかな色合い。次に近隣の武石村産の地鶏の和風焼き。味噌と白髪ネギを絡めていただく。安曇野放牧舞豚をトロトロになる直前まで煮込んだ柔らか煮は、辛子マスタードをつけてさっぱりといただく。魚料理には活岩魚の炭火焼。明科産の小岩魚をじっくりと炭火や焼くことで骨までいただくことができる。絞ったレモンや醤油をかけてあっさりと。最後に鯉のうま煮。濃い口醤油、酒、砂糖でじっくりと強火でアクを取ながら身の引き締まった明科産の鯉を煮込んだもの。鯉の泥臭さは消え、ほどよく脂がのった豊かな味わいを楽しむことができる。
続くお品も、焼き物、揚げ物、蒸し物の4品から1品を選ぶことができる。鰤の照り焼きの下に敷かれたのは山形村の長芋。炊いて、味付けして揚げたもので、これは下味をつけるという工程を揚げ物にも取り入れるという斬新なもの。柚子団子をエゴマを衣にして揚げたものと調和する一皿。次に近所のマルイ豆腐店産の手づくり豆腐を、木會産の朴葉で焼いた浅間豆腐の朴葉焼。揚げ物には鯉の甘酢あんかけ。骨切りにしたコイを二度揚げし、骨まで食べられるようにしたもの。甘酢の味わいがパイナップルと絶妙にからみあう。蒸し物としては茶碗蒸し。金目鯛、帆立、エビ、栗、長芋といった海のものを入れて柚子で香りつけをしている。季節によって具材は異なり、秋には松茸などを楽しむことができる。
酢の物は酢蛸、蛇腹胡瓜、白独活(うど)、花木耳(きくらげ)に黄味酢を掛けたもの。花木耳の桃色と対比するように黄味酢の色合いが映える。
御食事も2種類から選ぶことができる。その日その日に山崎社長が、精魂込めて手打ちする蕎麦は、寒い季節には温かけとざるから選ぶことができる。もう一つは五目御飯と赤出汁。お米は三郷産、赤出汁の具には秋に収穫したアミタケを塩漬けしたもの。
デザートの苺ムースは、生クリームを泡立てて糖分を入れて、一度アイスクリームを作ってもう一度泡立てるとふわっとした食感が得られるのだそう。愛知産の苺と苺ソースの甘酸っぱさをからめていただく。
これらのメニュー、チェックイン時にお品書きを手渡され、部屋でゆっくりと吟味した上で選ぶことができる。旅の道連れとあれやこれや言い合いながら選ぶことで、楽しい旅の気分も盛り上りあがることだろう。
朝食も同様、料亭「天ノ川」で7:30〜9:00。朝はバイキングの割合が多く、自家製の豆腐やサラダ、煮物やブルーベリーヨーグルト、トマトジュース、牛乳をカウンターからとりわけ、各個室にていただく。それらに加え、松の実入りで薬膳風のおかゆか白米、味噌汁におつけもの、温泉玉子、鮭塩焼き、甘露梅、アマゴの甘煮、栗、ほうれん草のおひたし、まいたけなど朝から盛りだくさんのボリュームだ。
御食事を堪能したら、また温泉に浸かるのも良いだろう。貸切風呂の利用は23時までだが、大浴場は24時間いつでも利用できる。衛生のため源泉を循環ろ過し、光蝕媒滅菌システムにより消毒を施してはいるが、肌触りの良い泉質を充分に堪能することができる。内湯の広さは大人15人入れるほどとゆったり。檜湯舟の露天風呂は大人5人ほどの広さ。脱衣所も畳敷きで素足に心地よく、使い勝手が良いのもありがたい。
大浴場入口前には10畳ほどの広さの湯上り処が設けられている。傍らには売店にて販売もされている、カリンジュースと延命茶が用意されており、入浴で乾いた喉を潤せる。待ち合わせの時間をここで費やすのもいいだろう。
このお宿を語る上で欠かせないのが、年間320日以上開催される車坐コンサート。会場も1階大浴場の手前、ふれあい広場“車坐”。太い梁が組まれた板の間の古民家風の空間で、くつろいだ雰囲気の中ミニコンサートや談話会などに場を提供している。音楽も様々なジャンル、クラシックにフラメンコ、二胡や津軽三味線、ポップスからフォーク、そして南米アンデスの伝統音楽、フォルクローレなどなど。このお宿のイメージソング、『風の誘い』を作詞作曲した、地元の人気シンガーソングライター手仕事屋きち兵衛さんのコンサートは毎月第二金曜日に開催される。その日によって演目も変わるので、そのスケジュールもホームページ上でチェックできる。取材日(2008年1月)には、地元を中心に活躍する男性フォークデュオ、雅&健による楽しいコンサートに加え、飛び入り参加のミュージシャン、“ホセ・ルイス山崎”ことソンブレロをかぶった山崎社長のメキシカンコスプレとコーラスが会場を沸かせていた。
土産物も充実している。玄関ロビーに面しているおみやげ処「ゆめや」にて、信州のおみやげをはじめ館内で使用している作務衣や化粧水、自家製のお漬物などを販売している。オススメはやはり「玉之湯」オリジナル商品で、食前酒にも出される特製あんず酒(一本¥2,100)、湯上り処で飲むことのできる果林液(一本¥1,050)、そしてオリジナル温泉化粧水「玉の雫」(一本¥1,000)。これはこの宿の温泉水をベースに、5種類の植物エキストレハロースなど肌に優しい成分を配合した全身用化粧水。日焼け肌や乾燥肌、パサつく髪の水分補給に、そして日々のお風呂やシャワーの後に使用することで、水分補給と保湿効果が得られるという。館内で着ていた作務衣も各サイズ取り揃えており、旅の思い出に残る品々がずらりと並んでいるのだ。さらには、イメージソング『風の誘い』のCDや、木彫り作家でもある手仕事屋きち兵衛さんの作品なども販売されている。
以上のように、大きな佇まいの温泉宿でありながら、ありとあらゆる客層にも受け入れられる、実にキメの細かいおもてなしが用意されているのがここ「ホテル玉之湯」なのである。一企業として便利さと効率、そして流行を追求していながら、それでいて伝統ある日本旅館の良さも守っている。新旧それぞれの良さを両立させたこの空気を創り出しているのが各スタッフの働きであり、そんな彼らをリードするのが女将の山崎圭子さんと、ご主人であり社長の山崎良弘氏だ。
女将は接客など最前線で陣頭指揮を取っておられるので、客であればごく自然に、滞在中触れ合う機会があるだろう。5代目にあたるこの女将さんは、明治生まれの厳格な祖父母の指導のもと、幼少のうちから旅館業に携わってこられたそう。東京での学生時代にボランティア活動サークルに所属し、熱中していた女将さんは卒業後に跡を継ぐ。当時、市会議員なども務め多忙であった祖父母は旅館の経営は続けていたものの、従業員のサービスなどにまでは目が届かず、旅館としてかなり傾いていたという。それを一から構築しなおし、改装を重ねることで現在の規模にまで成長、経営も持ち直した。だが、時代は移り変わり、団体客に向けたサービスだけでは難しくなった。多様な客の要望それぞれに応えるという、温泉宿本来の求められる姿を模索した。そこで採り入れたのが、学生時代の経験を元にした館内のバリアフリー化であったのだ。現在、あたりを見回しても、ここまで徹底している温泉宿はなかなかない。事実、ここの貸切風呂「はるの湯」を利用しに訪れる高齢や障害をお持ちのお客も多いという。
この活動を支えてきたのが、マイクロバスでの送迎にはじまり、先にも述べたそば打ち、コンサート出演など、裏方として大車輪の活躍をしておられる山崎社長である。女将が旅館業の傍ら通っていた調理師学校で、蓼科の山小屋で働くべく調理を学んでいた良弘氏と知り合ったのだそうだ。
山崎社長の活躍は、お宿の運営のみにとどまらない。知人の紹介を通じ始まったスペインとの文化交流事業の一環として、日本の蕎麦、「信州蕎麦」をスペインの農園で育てる試みを進めているのである。学生時代にメキシコに留学経験があるそうで、現在でもスペイン語が堪能な山崎社長。さらにそば打ちができるということから、そば親善大使に任命されたのである。2007年にはスペインのカンタブリア州に同士と飛び、種を蒔き、半年後再び渡西し収穫、見事そば打ちを現地ですることを達成した。この一部始終を社長自ら記したブログも、ホームページからリンクされている。非常に面白い読み物となっているので是非ご一読いただきたい。このイベントがあって以来、低迷していたカンタブリア州の農業改革として注目を集め、州の厚生労働大臣、農林水産大臣とのおつきあいもはじまったというのだから驚きだ。
今後も可能な限り、この文化交流事業に力を注いでいかれるという。さらには、若いときにお世話になったメキシコに範囲を広げることも構想中とか。これまでの主食であったトウモロコシが代替エネルギーとして着目されて以来値上がりしてしまい、庶民の暮らしに大打撃を与えているということ、北米のファーストフードが流入することで食生活が変化し、そばという健康食を普及させることで現地人たちに健康と安定した暮らしを取り戻してほしいという、いわば恩返しのようなものなのだそうだ。日本列島のほぼ真ん中、山に囲まれたこの松本にある浅間温泉が、海を隔てた遠い外国とつながっているというのは、なんとも不思議かつ魅力的な話である。(eb)