かつてこの地に暮らしていた漁師夫婦が、湯気立つ海で白鷺が身を癒す様子を見たことから、“湯の湧き出づる浦”と呼ばれるようになった。それが転じた「涌浦(わくら)」が、地名の由来となっているという和倉温泉。能登島を望み、七尾湾に張り出すように広がる温泉街には、海沿いに林立する大型旅館の印象が強く残る。能登の豊かな自然美、そして北陸の新鮮な山海の珍味などレジャースポットとしての魅力は高く、能登観光の拠点として県内はもとより、広く全国に知れ渡る北陸を代表する温泉地である。
歴史的に見ても1200年という伝統を持ち、加賀藩主の前田家にも珍重されてきたという。その影響もあり、ここには高級指向を全面に打ち出している絢爛豪華な装いの旅館が栄えてきたが、必ずしも敷居の高い旅館ばかりではない。海沿いの道から一本内に入ると、客室規模の小さい旅館が軒を連ねる。温泉街は散歩を楽しめるように綺麗に整備され、観光客がそぞろ歩く姿がみられるであろう。
名温泉地の多い石川県でも随一の集客を誇るこの和倉温泉だが、2007年3月25日の能登半島地震により大きく被災した。ほとんどの宿が営業停止に追い込まれ、同時に客足も遠ざかったが、現在では街に傷跡は見られず、見事に復興したといえよう。
温泉街からガス燈通り、渡月橋を越え、青いウォータースライダーを目印に進むと、和倉温泉シーサイドパークの向かいに5階建ての「和倉パークホテル十番館」は見えてくる。ここは客室数24、この温泉地では小規模なお宿である。
建物正面の階段を上り館内に入ると、支配人によるにこやかな出迎えがある。館内は暖色系の灯りに照らされ、木調の設えと相まってあたたかみのある雰囲気。帳場の横には竹久夢二の代表作、「黒船屋」が飾られるなど、大正浪漫のノスタルジアを感じさせる内装となっている。
パブリックの施設は入口の2階に集中している。入口の左手にはダイニングの「浪漫亭」があり、食事はここで全ていただくことになる。右手には売店「ふくらぎ屋」。その手前にはバー併設のサロン、「いねむり倶楽部」がある。ここはギャラリーさながら竹久夢二の絵画の数々が壁に飾られている。カラオケ設備や、お子様向けのぬいぐるみや絵本なども置いてある。取材時にも、日当たりの良いこの部屋でのんびりとくつろぐ宿泊客も多く見られた。
大浴場は2階に女湯「凪の湯」、階段を下りていく1階に男湯「波の湯」がある。時間はチェックインの14時から夜23時まで。深夜に男女入替があり、翌朝6時から10時まで再び、晩とは異なる湯舟を利用することができる。大浴場のお湯は温泉で、対岸にある能登島から運ばれる、能登島ひょっこり温泉。「波の湯」は湯舟がひとつあるのみだが、「凪の湯」には内湯だけでなく、野外に向けて開放感ある湯舟も設置されている。
客室は3〜5階。エレベーターで行き来ができる。ここで人気を集めているのは、2007年のリニューアルで誕生した特別室、オシャレな露天風呂付き和洋客室の2部屋だ。ここは専有面積49uと広く、炬燵の置かれた琉球畳敷きの和室と、フローリングの上にツインベッドが置かれる。ベッド前の壁には32インチTVが据えつけられているなど、のんびりと寛ぐための仕掛けに満ちた一室。露天風呂は総桧造りで、湯舟の脇には、レインシャワーも備えるシャワールームが付く。お湯は残念ながら温泉ではないが、目の前に広がる眺望と、誰にも気兼ねすることなく湯浴みができるというのは贅沢そのもの。
これらの部屋以外の標準客室は一般的な設えのもので、和室が13室、洋室が9室あり、全室にトイレとバスが付く。上記の特別室に比べるとオシャレさなどは劣るが、どの部屋もスッキリと清潔感ある。今後、露天風呂付き客室を増設していくなどの計画があるそうで、いずれも海への眺望が開けた露天風呂となるそうだ。
料理は北陸、日本海の幸を堪能できる、見た目にも豪華な品々を2階のダイニングでいただく。温かみある木調の室内に置かれたテーブルと椅子が、レトロな洋館のような佇まい。奥にはゆるやかに仕切られた、個室状のテーブル席も2つ用意されているのに加え、お子様用の椅子の準備もある。BGMとしてかけられていたのが、小田和正のアルバム。カップルも多くいる中、別れの曲が鳴り響いていたのはご愛嬌。
取材時(2008年2月)の献立は、支配人曰く「良い食材を飾らずに、そのままお召し上がりいただく」というもの。エビ身が添えられた能登もずく、クラゲの身と、サツマイモのうらごし団子、そしてカニと卵の真丈巻きが添えられる、甘鯛の西京焼。石川牛の脂身の少ない部位を使用したローストビーフサラダ。北陸の名産品、蛍烏賊の沖漬け。これは、イカをまるごと、または切り身にして醤油に数時間〜数日漬け込んだものだ。
テーブルの中心に据えられているのはメインの能登海鮮石鍋。七尾漁港で仕入れられた、海老、生ズワイガニ、バイ貝、ハマグリ、豆腐、自家製のすり身、白菜などの季節の野菜、そしてクコの実が入れられた、見た目にも豪華な一品。石鍋は千葉県から取り寄せた特製のもので、火の持ちがよく、弱火でもじっくりと炊き込むことができる。いしる(魚醤)の旨味がしっかりと引き出され、「これぞ北陸」という味を堪能できる。
お刺身に並ぶのは、生甘エビ、鮪、寒鰤。寒ブリは能登半島の宇出津港であげられたもの。北陸の冬の代名詞、ゆでズワイガニも出される。ポン酢にさっとつけていただこう。
別注料理の中でも一番人気があるのが、目の前で焼くサーロインステーキ。石川県産和牛の、脂身が少なくやわらかい部位90グラムを使用。味付けはシンプルに塩コショウとバターで。
エノキ、鶏肉、銀杏、かまぼこが入れられた茶碗蒸しで胃袋を鎮めて、この地方の水の良さを活かしてつくられた能登のお米、「ノトヒカリ」で締める。これは希望であれば(お腹に余裕があれば)、ダシがしっかりと出たお鍋にいれて雑炊にすることもできる。
見た目にもゴージャスさ漂う献立だが、量も比例するようにゴージャス。あらゆる海の幸を存分に楽しめる夕食であった。
朝食も同じくこのダイニングでいただく。ヤリイカの刺身、焼カレイ、ひきわり納豆、ひじきとニンジンの炊き合わせ、温泉卵、湯豆腐、野菜サラダが並ぶ定番の和定食だ。
帰る前に是非立ち寄りたいのが、2階の売店である。ここには能登名産だけでなく、竹久夢二グッズも豊富に置かれているのが、徹底していて面白い。オススメはもちろん竹久夢二グッズ各種。レターセットや絵葉書、マグカップやハンドミラー、額縁入りの絵画と、実に多くのランナップである。ここに泊まった記念として、これほど適したものはないだろう。この他に、のとミルクジェラート(天然塩、崎山いちご、抹茶、ミルク味、各¥105)、能登のこだわり牛乳(200ml/¥160)、お茶請けにもなっている「能登の國」(10枚入り¥740、15枚入り¥1,050)は人気のある商品だそうだ。
この宿を語る上で、避けて通れないのが支配人の伊藤弘さんである。もともとこのお宿は、長野県大町温泉郷にある「緑翠亭 景水」の支店という形で平成4年にオープン。以来、支配人としてここ和倉温泉に腰を据えることになった。平成12年にリニューアルし、「十番館」として再スタートする。この際に、かねてより膨らませていた「大正浪漫」のイメージにぴったりだったことが、館内に80枚以上も飾られる竹久夢二の絵画収集のきっかけだという。
やがて平成18年には独立し、オーナーとなる。こういう経緯から実際には社長と呼ぶべきかもしれないのだが、「お客様にもスタッフにも、自身親しみのある“支配人”と呼んでいただいています」とにこやかに語る。99年以来、毎日更新されている公式ホームページの支配人日記は10年目(!)に入る。宿のこと、和倉温泉のこと、世間話からプライベートなことまで、内容も多岐に渡るもので、この宿のこと、そして支配人やスタッフの人柄まで伝わるというものだ。実際に、宿に興味を持ち、ネットで調べ、この日記を読んでから来るお客も多いという。
スタッフのほとんどは20代と若く、活気があふれているこの宿。泊まってみるとわかるであろう、ここは支配人が大黒柱だ。その存在は家長のようであり、教育者のようでもあり、そして里親のような存在感である。スタッフを下の名前で呼び、冗談を言い合うなど、父が自分の娘や息子と接するような親しみと愛情が込められている。聞けば、小学校のPTA会長も務められていたというのだから、それも納得。
家族経営の宿が持つアットホームさを感じさせながらも、ここはペンションではなく、民宿でもなく、旅館でもない。もちろんそれらのエッセンスはしっかりと流れているが、何か一つ、違ったジャンルの宿泊施設と呼ぶのが正しいように思えてくる。和倉温泉といえば、100以上の客室を持つ、加賀屋など絢爛豪華な大型ホテルや旅館が軒を連ね、またこの温泉街のイメージを形成している。そんな中、ここ「和倉パークホテル十番館」のように、小さいキャパシティーながらも個性を放つ、かつリーズナブルな宿があるということを覚えておくのもいいだろう。
「和倉パークホテル十番館」は20代のカップルから、30〜40台のご夫婦、そしてファミリー層、さらには50台以上のご夫婦・・・と、幅広い客層に支持されている。このことからもわかるように、ここは襟を正して行くような雰囲気にはなく、普段着で行ける気軽さがあるのだ。こんな感覚がこの宿の一番の特徴であり、何よりも大きい魅力なのかもしれない。(J/eb)