数多くある日本の温泉郷でも、有数の湯量を誇る奥飛騨温泉郷には、やはり数多くの宿泊施設が建ち並ぶ。その数は大小あわせ200軒近くもあるといわれ、山深い立地ながら多くの観光客で賑わう一大温泉郷である。広域で奥飛騨温泉郷と呼ばれているが、平湯、新平湯、福地、栃尾、新穂高と、エリア別にそれぞれ特色と個性を持つ温泉街で構成されている。
「宝山荘」のある栃尾温泉は、栃の木がたくさんあったことからこの名が付いたと言われる。穂高連峰から流れ出る清流蒲田川と、上流に有名な平湯大滝のある平湯川が合流、高原川と名を変える谷に広がっており、庶民的で気どらない宿が多いのが特徴の温泉街だ。周囲には見渡す限り山々が連なるという圧倒的なロケーションの中、身を寄せ合うようにしてこぢんまりとした建物が佇む様子は、素朴という言葉そのもの。
栃尾温泉横を流れる蒲田(がまだ)川は、まだ寒さが厳しい早春、3月1日にアマゴやイワナの釣りが解禁になることで知られており、渓流釣り師、ドライフライフィッシャーたちにとっては聖地のような場所である。地熱の高い温泉地を流れること、その温泉が川に流れ込んでいること、これらの影響により氷点下の気温であっても川の水温は10℃〜あるため、魚の餌となる水生昆虫が禁漁期間中の冬でも豊富。結果当然のように魚はよく育ち、絶好のコンディションで早春の解禁日を迎えることができるという、日本でも非常に特殊な場なのである。
こうした、渓流釣りには格好の条件が揃う栃尾温泉だから、やはり釣り客も多く訪れるそう。ここ「宝山荘」のご主人、下毛さんはご自身も渓流釣りに魅せられた一人。館内には釣り上げた30センチ級のイワナやアマゴの剥製、疑似餌や魚の絵などが飾られ、容易に釣り人であることが察せられる。また、外からも直接出入りのできるロビー横の喫茶コーナーには、「奥飛騨釣りクラブ」各人の釣果表が張り出されているなど、釣り師たちの情報交換の場、そしてオアシス的存在にもなっているようである。その証拠に、フライフィッシングの情報誌『FlyRodders(フライロッダーズ)』特集記事にもこの宿は登場し、杉坂研治、岩井渓一郎、鈴木寿の名人3人が技を競い、終えた後の座談会の場を提供している。
自然と向き合う釣り師や登山客、そしてその良質な温泉目的の客が多く泊まるこのお宿、館内からはやはり素朴な印象が全面的に漂う。客室は7個、全てシンプルなつくりの和室で広さは7.5畳〜10畳、どの部屋にも掃除が行き届いており清潔な印象だ。どの部屋の窓からも、雄大な山を望むことができる。客室にトイレやシャワー、洗面は付かないが、1・2両階に公衆トイレと洗面所が設けられている。トイレは男女ともに和式と洋式が用意されているので、不便さを感じることはないだろう。
温泉も魅力的だ。男女別大浴場には内湯と露天風呂がそれぞれある。脱衣所の床下には温泉が通るパイプが巡らされて床暖房となっており、寒さをやわらげるつくり。内湯の湯舟は男湯のほうが若干広く、大人5人が同時に入っても窮屈感はないだろう。露天風呂も同様の広さを持ち、岩組みの湯舟とその上に組まれたやぐらが、野趣溢れる風情を醸し出す。ここは当然のように源泉をかけ流しにしており、そのサラリとしたやわらかい肌触りを存分に楽しめる。温泉の引き込み温度は68℃と高いため、加水処理をして適温にしている。その水には不純物の少ない洞谷の天然水を使用しているため、より純度の高い温泉浴を堪能することができるのだ。気温の関係上、やはり夏よりも寒い冬のほうが温泉水の割合が高くなる。より上質のお湯を楽しみたい、お湯にこだわりを持つ方は、静寂に包まれる雪深い冬の季節に訪れることをおすすめする。
料理にも里山らしさが漂う。近くの山で採ってきた山菜や、ご主人が釣り上げた川魚を使った素朴な料理。堅苦しい懐石料理などではなく、猟師から直接仕入れるという熊肉の鍋物や、地元の特産品・飛騨牛を使用した陶板焼きなどもふるまう。取材時のメニューを以下に紹介する。
まず、くごみ、ゼンマイ、山椒の新芽といった山菜が並んだ一皿。いずれも近隣の山で収穫したものを冷凍保存や天日干しにして保存、水で戻して皿に並べたものだ。小鉢の独活(うど)のおひたしにはあぶらえ(えごま)をかけて。どれも余分なものを加えない、素材の旨味そのものの味。酢の物にはキュウリ、もずく、コンニャク。お造りには岩魚のお刺身が出される。濃い口の醤油に生姜のツンと鼻に抜ける香りを楽しみながら、岩魚の正直な味を堪能。蒸し物にはしいたけやかまぼこなどの入った茶碗蒸し、季節によっては茶碗蒸しの変わりに手打ち蕎麦をふるまうこともあるそうだ。
焼物には、地元の特産品の代名詞でもある飛騨牛を使ったすき焼き。飛騨牛の特色である、淡い紅色とつきすぎない脂肪分が、他の食材と口の中でほどよく溶け合う。さらに岩魚の朴葉味噌包み焼きも出される。この近隣の山で多くとれる朴葉に包んで焼くことで、岩魚の旨味と香りが逃げずに凝縮されるというものだ。味噌との相性も抜群だ。
鍋物には季節の寄せ鍋。ネギ、マイタケ、ムキタケ、なめこ、春菊、白菜、白身魚が土鍋でしっかりと煮込まれ、身体が芯から温まる。キノコ類はご主人自ら採取してきたものだそう。具材のダシが汁に浸透したところで、ご飯を入れて雑炊に。取材時は冬のため寄せ鍋であったが、春夏にはキノコか山菜の天ぷら、秋冬にはキノコなどの鍋ものと、季節によって旬の食材を楽しめる。
具材もシンプルなら味付けもシンプル、そのため食べすすめても食べ飽きることがなく、最後までこの山の料理、懐かしい味を堪能することができた。
朝食も同じ大広間で、朝は朴葉味噌焼きを中心に構成されており、豆腐に温泉玉子といった、ご飯がすすむラインナップ。
チェックアウトは9:30と、平均よりも早めに設定されているが、周囲に広がる大自然の織りなす、さまざまな見所をまわるには、これでも遅いくらいかもしれない。まずは栃尾のランドマークにもなっている「荒神の湯」が宿から徒歩10分ほどの距離にある。これは公共の大露天風呂で、入浴は基本無料だが、寸志として200円ほど支払う。周りには、脱衣場と露天風呂と書き込まれた大きな岩があるだけ。雄大な山々に抱かれながら、大自然をひしひしと感じることができる。「宝山荘」から徒歩1分の川沿いには、「火山の恵み広場」がある。ここも公共の公園で、「蛍の湯」という足湯が100円で利用できるだけでなく、川に沿って整備された遊歩道は、6月下旬から7月上旬には蛍が群生することで知られている。また、蒲田川を上流に遡るようにしていくと、有名な新穂高ロープウェイがある。これは一気に3000メートル級の世界へ行けるもので、登山家やアルピニストしか体験できなかった世界を、山の心得も装備もない一般客でも体験できるというもの。上まで行かなくても、ロープウェイ乗り場へ向かう道すがら、晴れていれば槍ヶ岳をはじめとする新穂高連峰を仰ぎ見ることができる。
この宿の周辺は、のどかな景色があるだけで、繁華街も無く、宿内にもカラオケなどの娯楽施設はない。ここにあるのは圧倒的な大自然と、温泉や食材に代表されるその恵み。これら人の手によって作り出されたものではない、自然の賜物に価値や楽しみを見出せる人が集う。それだけに、ここにかつて宿泊した人はその自然と一体化したような、この宿の雰囲気に魅せられ再度訪れる、いわゆるリピーターが多いという。もちろんご主人と共通の趣味である、釣りの話をしに来る人も多いようだが、その豊富で純度の高い温泉、そして飛騨ならではの素朴な料理がリーズナブルに楽しめるというのも、来訪する大きな理由であろう。
なお、このお宿では朝食のみのプラン、そして素泊まりプランも用意している。この豊かな自然に囲まれる静かな佇まいもあって、最近流行となっている、2〜3日の"プチ湯治"を行うには最適な環境といえるだろう。さらに、公式ホームページから宿泊予約をすると、滞在中に利用できるコーヒーチケットが特典として付く。ご主人得意の釣り情報から奥飛騨の四季の景色、お宿の雰囲気やご主人夫妻の人柄が伝わる公式ホームページは、女将さんご自身が更新しているとの事。是非チェックしていただきたい。(eb)